村尾靖子著(海拓舎発行) | ||
詳細は海拓舎ホームページを参照ください。 http://kaitakusha.com/mainframe_03.html/
<歴史と人生と「もし」> 「歴史と人生に『もし』はない」という言葉がある。ほんの偶然が、悲劇を引き起こしたかのような歴史上の出来事も、抗えない運命に支配されたかのような悲惨な人生も、起こったすべては必然であり、そこに「もし」という疑問を投げかけて、架空の歴史や未来を想像することは無意味だ、というのだ。多くの人の生が複雑に絡み合ってできるのが歴史だとすれば、そのように生まれた歴史の波に、翻弄されるのもまた、人の生である。本書『クラウディア 奇蹟の愛』は、戦争という、もっとも過酷な歴史の波に呑まれつつも、信念に基づく人生を歩んできた、3人の男女の物語である。 <弥三郎と久子の「もし」> 人生を切り開く力に欠ける凡庸さゆえに、今日も私は「もし」と自らに問いかける。もしあの時ああしていたら、こうしていたら、と後悔するのである。でも、どの「もし」も自分の意思の決定に関するものだから、せいぜい反省材料か自己嫌悪のタネにしかならない。しかしながら、本書を読み進むにつれて湧き上る「もし」は趣を異にする。弥三郎氏が、もしあそこでアルメニア人の床屋に会っていなかったら?久子さんが、もし弥三郎氏からの最後の手紙を受け取っていたら?いずれも彼らの意思が及ばないことに関するものである。ところが、これらの「もし」が現実に起こっていたとしても、やはり弥三郎氏は何かの技術を身につけて、シベリアでの40年を生き延びたろうし、久子さんは夫を待ち続けたろう、と思う。「歴史と人生に『もし』はない」というのは、もしかすると、「もし」によって歴史や人生が変わることはない、という意味なのかもしれない。 <クラウディアの「もし」> ロシア人女性、クラウディアの選択は、長年連れ添った夫を、生き別れになっていた日本の妻と娘の元へ送り出すことだった。人生の黄昏期にあっての決断だから、若い娘が恋人に別れを告げるのとはワケが違う。言うなれば、彼女は「人の不幸の上にある自らの幸福」を拒否したのではなく、「人の幸福の上にある自らの不幸」を選択したと言って良い。しかし彼女の心に、「もし」はない。 このクラウディアの意思を、『奇蹟の愛』と著者は呼ぶ。確かに彼女のこの愛は、今の時代においては、限りなく奇蹟に近いだろう。けれども私はこう思いたい。クラウディアの愛が特別な「奇蹟」なのではない。心のあり方ひとつで、我々の誰もが奇蹟をおこす可能性を秘めているのだ、と。 シベリアの雪原を背景に、雪を戴き、まっすぐに空を仰ぎ立つ一輪のひまわり。表紙のこのひまわりこそ、クラウディアその人のようだ。凛々しくも切なく、そして哀しい。明かり乏しいシベリアの夕べ、遠い異国の夫を思いながら、二人の思い出が詰まった小さな部屋の、古びたソファに腰を下ろす。クラウディアのそんな寂しい姿が目に浮かぶ。彼女の夜が安らかであらんことを、切に祈るばかりである。 (評者 通信員/中西利恵・はるかウランバートルにて) |