連載「講演記録」 
〜40年間ソ連・ロシアを見つめ続けて〜


日露ビジネスセンター 代表 岩佐 毅

 

極東ロシアの玄関・明るいウラジオストーク国際空港
 
第二回(最終回)
       
〜ゴルバチョフのクーデターに遭遇〜
実は私は、1991年のゴルバチョフのクーデター発生の際に、丁度モスクワにいた経験があります。あれは8月中旬のことだったと思いますが、私はいつものようにモスクワ経由オデッサに向かい、その前日の日曜日には、明るく晴れ渡った青空のもとで、友人の大学教授のヨットに乗って、黒海に繰り出し、一日中泳いだり、帆走したりして楽しく過ごし、夜早く床につきました。
そして、翌朝朝早くホテルのフロントに下りてみると、朝7時頃だったと思いますが、テレビの前に、15人くらいのウクライナ人やロシア人が陣取って、みんな真剣な表情でテレビに釘付けになっているのです。
私は朝の早くから何か面白い番組でもやっているのかと思い、しばらくテレビの画面を見ていましたが、画面では「白鳥の湖」かなにかクラシックのバレエが放映されているだけで、特別なにも面白い番組が写っているわけでもありません。
しかし、画面を見つめるホテル従業員やお客はこわばったとても深刻な顔つきで、黙りこくって、そのクラシックバレエを見つめていました。
そして、そのうち突然画面が変わり、黒い喪服のような衣装の女性アナウンサーが現れ、なにやら臨時ニュースらしき声明を無表情に読み上げ始めました。
何回も通常聞きなれない言葉が出てきましたが、「チェレズブチャイノエ・パラジェーニエ=緊急事態」という言葉が繰り返し耳につき、何か分けのわからぬままにも、のっぴきならぬ異常事態が発生しているのではないかという雰囲気を感じました。
すると、ウクライナ人たちが突然「ペレバロット!ペレバロット!=クーデターの意」と叫び声を挙げ、更に「ゴルバチョフが殺された!」と叫ぶ人もいてその場が騒然となりました。すると、また、後ろにいた数人のアルメニア人が「ウラー!(=万歳の意)我々の仇のゴルバチョフが殺された!乾杯だ!」と大声をあげて、とっさに大きな音をさせてシャンペンを開けて、祝杯をあげ始めたのです。
この日モスクワでクーデターが発生したことはようやく分かりましたが、一日中クラシック音楽の合間に、1時間おきくらいに、喪服のアナウンサーが全く同じ口調と表情で繰りかえし同じ声明文を読み上げるだけで、それ以上の情報は得ることはできませんでした。

私は翌日の飛行機でオデッサからモスクワに向かい帰国することにしていましたので、かなり迷いました。
早速部屋に帰り、モスクワの日本大使館に電話をかけましたが、なかなかつながりません。いらいらしながらしばらく待つと、ようやくつながりましたが、大使館の職員も「何が起こっているのか分かりません。街中戦車が走り回っています。とにかく明日なにが起こるか大使館も予測ができません。一刻も早く外国にでてください。」というのみで、どうしようもありません。
そして、オデッサの町にもなにか変化はないかと窓の外を何回も見回しますが、まったく平穏そのものです。市民たちはいつものように緑の街路樹の広い通りを、ゆっくりと散策しており、アイスクリームを食べながら笑い転げている若い娘さんたちもいつもの通りです。私は、ようやく決心をして翌日予定通りモスクワに向かう飛行機に乗り込みました。

緊張するモスクワ市内にて、戦車を背景に
そして、はるか1200キロの空を飛んで夕方モスクワのブヌクボ空港に到着しました。出迎えの海運省の知り合いが、出口で携帯ラジオに耳をつけて待っていてくれました。
そして、車で市内に向かい始めるとすぐに、道路の左右の森の中に、草色の戦車の砲塔が見え隠れし、次第に緊張が高まりました。友人は運転しながら、ラジオを聞き続け、西ドイツからのロシア語放送を聞いているのだというのです。現在モスクワ中のテレビもラジオも放送が完全にストップし、新聞も発行されていないのだというのです。
〜正確な情報はドイツから〜
意外にもドイツからのロシア語放送がとても詳細に市内の様子を伝えていて、今モスクワ郊外の基地から戦車部隊50台がクレムリンに向かっており、今夜は危ない、衝突が起こるかもしれないというのです。
緊張するモスクワ市内中心部・エリツイン派の戦車とともにしばらく走行し、モスクワ市の中心部のホテルに向かいましたが、途中の大きな橋のところまでくると、橋の中央部に鉄条網を張り巡らし、大型バスをパンクさせて障壁にしたバリケードが築かれ、その中に戦車数台がいわゆるホワイトハウス=国会議事堂を背にして砲塔を外に向けて止まっており、その砲塔には真紅のバラが数輪挿してあるのです。
恐る恐るその戦車に近づいてみると、若いにきび面の戦車兵に市民たちがジュースやお菓子を差し入れしており、とても和やかな雰囲気なのです。
戦車の前の道路にはあちらこちらに丸い人の輪ができており、思い思いに議論を戦わせているのです。そのうち、国会議員が演説を始め、クーデター派の大臣の一人が自殺したなどと報告し、クーデターが失敗に終わりつつあるという情勢を伝え、大きな拍手と歓声に包まれました。
要するにこのバリケードの中にいた戦車はクーデターからエリツインの守る改革派や国会を防衛するために派遣された反クーデター派の部隊だったのです。
そして、ようやく遠回りしてホテルに到着しましたが、その夜は、外出禁止令が出され、ビールを飲んで早くベッドに入りましたが、とても興奮して寝付かれず、また玄関まで出てみると、丁度10時過ぎ頃でしたが、クーデターに反対の改革派が立てこもっていた徒歩10分くらいのところに聳え立つロシア人たちが「ホワイトハウス」と呼んでいた高層ビルの国会議事堂の明かりが、突然全館消えて真っ暗となりました。
その瞬間私は何か胸騒ぎがしましたが、やはり、その夜、夜中にテレビをつけてみるとCNNの衛星放送で例のバリケードのあった橋の上で衝突が起こり、数人の青年が命を落とした戦闘の実況放送を映し出していました。
幸いこのクーデターは失敗に終わり、翌日は空港も正常化し、私は戦車が延々と基地に引き返す渋滞の中を空港にようやくたどり着き日本に帰国できました。
〜クーデターを境にソ連は混乱激化〜
しかし、このクーデターを契機にしてソ連の政治・経済や社会的混乱は益々拍車をかけ始め、私の会社も黒海船舶公団からの船舶修理代金5億円以上が長期不払いとなり、シンガポールで船舶の差し押さえを2回も行い、ようやく2年遅れで回収しましたが、ビジネスも急激に縮小となり、とうとう最後には、シンガポールの姉妹会社を除く全事務所を閉鎖し、思いもかけなかった倒産の憂き目にあい、私も50歳を越えて浪々の身になってしまいました。
何しろソ連崩壊後には日本の大手商社を中心にソ連に対し合計2千5百億円の不良債権が発生し、その後、東京クラブという合同の債権者集団を結成し、ソ連の対外債務を引き継いだロシア政府と交渉し、その結果、7年据え置きの、25年の分割払いということで決着がついたということです。
その当時のソ連には人口が2億8千万人、日本の四十五倍・アメリカの倍の広大な領土と石油・ガス・石炭・鉱物資源・森林などのありとあらゆる豊富な天燃資源を保有し、全国で時差15以上、民族が150以上混住する巨大な他民族国家でした。
また、核弾頭2万数千発や原子力潜水艦などを多数所有する数百万(約450万人)の軍隊もあり、アメリカに対抗する冷戦の一方の旗手でもありました。
しかし、その社会の実態は現在の北朝鮮社会の原型とも言えるような、共産党一党独裁の実に貧しい、自由のない、閉塞感と矛盾だらけの社会でした。
そういった、まったくアンバランスな社会状況を皮肉った次のような小話も耳にしたことがあります。
― 真冬の寒波の朝、マイナス20度の小雪の中を街頭でいつものようにたくさんの人が牛乳を購入するのに行列しています。その中に一人小学1年生の少女が寒そうに立っているのを見かけた外国人が彼女に聞きます。「あなた小さいのに大変ね、お母さんやお父さんは行列にならんでくれないの?」するとこの少女は「だって、ママは今パンを買う行列に並んでいるし、お父さんは宇宙飛行士なの。今宇宙を飛んでいるから、牛乳を買いに並べないの」といったそうです。−
また、10年間続いたアフガニスタンでの戦争も大きな負担となっていたようで、ソ連崩壊を加速した原因のひとつです。延べ100万人もの戦力を投入し、10年間にわたった軍事介入が失敗に終わり、何万人もの犠牲者を出して最後にはすごすごと撤退をせざるをえなかたアフガニスタンの戦争の話は現在でもロシア人はとても嫌がります。
― モスクワに休暇で帰国した将校が散髪をしています。すると、髪をハサミで切りながら、散髪屋のニーナが将校に問い掛けています。「大尉さん一体アフガニスタンはどうなるの?」将校は「もうすぐ正常化するよ」と答えます。しばらくたつとまた、「アフガニスタンはどうなるの?」と全く同じ質問を何回も繰り返しながら、散髪が進められます。
すると隣で働いていたマリーナが怪訝

ロシア名物・可愛いマトリョーシカ
そうな顔で「ニーナなんで同じ質問繰り返すの?大尉さんも同じ答えを繰り返すだけじゃない。」と聞きます。
すると、ニーナは「だって、この大尉さん“アフガニスタン”と言ったとたんに髪の毛が一斉に逆立って、とっても刈りやすいんだもの。」−
突然、戦場から将校が付き添い両親のもとに封印された棺桶入りの息子の遺体が届けられ、遺体を見ることも許されず埋葬しなければならなかったのがアフガニスタン戦争でした。何故かというと、ロシア兵がアフガンゲリラの捕虜となって殺害されたり重傷を負って戦場に放置されたりした場合は、目玉を抉られ、生皮をはがれたような遺体が多かったためです。
さて、暗い話ばかりが続きましたが、今までお話したように長い間社会主義共産主義を目指してなんの自由も希望もないとても閉鎖的状況の社会に生活しているにもかかわらず、ロシア人はとても楽天的で明るくおおらかなところがあります。どんな苦労があってもウオッカを傾け、小話=笑い話を次々繰り出して、笑い飛ばす明るさがあります。
また、男女の色事に関しては、とてもおおらかで、離婚率も極めて高く、たいていの男は2回目の奥さんを連れています。

〜ソ連崩壊から新生ロシアへの変化〜
さて、過去の話はこれぐらいにしまして、ソ連崩壊後から現在までのロシアの社会状況について、少しお話させていただきます。

1996年6月第2回大統領選挙の際エリツィンの立派な選挙看板が街中にあふれた
1991年に窮屈なソ連社会が崩壊し、共産党も事実上姿を消し、急速に社会が変化し、経済もまた人々の精神的状況も変わってきました。ペレストロイカをはじめたあのゴルバチョフは辞任のあとしばらく人気がとても悪く、マクドナルドのテレビコマーシャルに出演したりして「パンドラの箱を開けたまま、閉め方を忘れた男」、「金の亡者」などと批判されていました。
しかし、最近少し彼の人気も持ち直してきたようです。やはり、あの80年近く続き硬直した社会を叩き壊し、人間らしい民主的社会を目指した彼の考えは少しづつ見直されてきているようです。
ゴルバチョフのペレストロイカ後のこの15年間ほどの間に大きくソ連時代と変化した点を少しあげてみたいと思います。

第二回大統領選挙にゴルバチョフも出馬したが、ポスターでもお
分かりのように、エリツインとの力の差は歴然としており完敗した
@ ビジネスと貿易の自由化

なんでもそろう自由市場・ウラジオストーク
以前は自宅周辺で栽培した野菜などを販売する一部食料品などの自由市場を除き、全ての産業やビジネスは原則的に国営で運営されておりました。しかし、現在は個人であれ会社であれ一定のルールさえ守れば自由に商売を行うことができ、一斉に花が開いたように大小さまざまな商店が開店してにぎわっています。
また外国貿易も中央集権的一元的支配でモスクワの外国貿易省のみが独占的な外国貿易の権利をもっていて、その他のあらゆる組織はどんなに大きな会社でも、独自に外国と輸出入貿易を行うことはできませんでした。しかし、現在では個人を含め、外貨管理やその他の一定のルールを守り、税金さえ収めれば誰でも外国ととりひきできるようになりました。
A海外渡航の自由化
また、大きく変化したのは外国への渡航の自由です。以前は一般のロシア人は事実上外国には行くことができない仕組みになっていました。パスポートと一応呼ばれていますが、普通一般の人は国内用のいわば身分証明書のパスポートしか所有しておらず、外国に渡航するには外国渡航用の別のパスポートを取得しなければなりませんでした。
しかし、一定の国営組織に属したしかるべき地位の人以外は外国渡航用パスポートの申請などは事実上不可能でした。もし、一般庶民が外国渡航用パスポートの申請でもしようものなら、おそらくKGBの調査対象にされたはずです。
B外貨所有と交換の自由化
以前ソ連時代は外貨管理が極めて厳しく、どこで入手したか記載した証明書類を所持しないで10ドルでも外貨を持っているだけで、逮捕されるということになっていました。
例えば、ソ連時代は一般市中の店には碌な品が並んでいなくて、外貨ショップ「ベリョースカ=白樺の意」には彼らにとってはまばゆいばかりの外国製品がずらりと並んでいました。しかし、何らかの理由で外貨を入手しても、のどから手の出るような商品が並んだベリョースカなどは危険極まりなく、絶対に出入りできず、万一店内にロシア人が入店すると、警官が飛んできて外貨の所有証明書を検査し、トラブルになっていました。
 現在では一般ロシア人が外貨を所有することはほぼ無制限に何ら問題なく、また、銀行でも市中の外貨交換所でも自由にルーブル〜外貨への相互交換ができるようになりました。
C豊富な商品と品質向上
商店の商品も見違えるように豊富になり、品質もとてもよいものが並ぶようになり、スーパーがどんどんできて、既にオールナイトのいわゆるコンビニエンスストアーも迷彩服の自動小銃を構えたガードマンが控えていますが、あちらこちらに開店されています。
そして、たいていの町には何箇所も大規模な露天商が集まった市場= リーノックがあり、物質的にはなんら日本などとも変わりないぐらいに豊富になってきました。
Dレストランなど外食産業が盛況 

どこの町にもある便利な自由市場
ソ連時代にはホテルの中か市内にある大規模なレストランしかなく、しかも、その数が極端に少ないため、夕食を食べるには必ず予約をしておかなければ、食事にありつけないような状態でした。しかし、ペレストロイカが始まると個人経営の様々な飲食店も続々開店し、モスクワではソ連時代にはウクライナ出身のアメリカ人実業家ハマー氏が建設した国際貿易センター併設のホテルインターナショナルにあった「さくら」一軒しかなかった和食店が、現在100以上あり、回転寿司やたこ焼き屋もすでにあります。
ウラジオストークにも最近よいすし屋さん−「エデン」と「七人の侍」−があいついで開店し、ロシア人が大勢押しかけて、とても盛況のようです。

ウラジオストークの寿司バー《エデン》
E乞食の大量出現
しかし、良いことずくめでもありません。ソ連時代はお金持ちもいないかわり、極端な貧乏人もいないという、比較的平等な社会で、まじめに働いてさえいれば、教育も医療も無料、住宅などもとても安く、しかも年金で十分老後は暮らせるという基本的生活は十分保障された安定した社会になっていました。
ペレストロイカが開始され、急激に経済制度や社会制度が変化し、ハイパーインフレが急速に進んだにもかかわらず、そういった変化に対応するきちんと新しい仕組みが整備されていないため、極端な社会的歪みや矛盾が特に老人たちにのしかかり、様々な社会問題となっています。その結果、ペレストロイカが始まるとすぐに大都市には、社会主義時代には決して目に付かなかった乞食があちこちの街角に立つようになり、、とりわけ身寄りのないお婆さんがしょんぼりと手を差し出してたたずむ姿が多くなりました。
数年前の話ですが、モスクワの地下通路に降りてゆくと、トンネルの両側にずらりと10人前後のお年寄りが手を出して、立っています。

モスクワの街角にたたずむ物乞いの老女
中には青白い顔で、両手を震わせている、病気の幼い子供抱いている女性もいます。
また、サンクトペテルブルグの目抜き通りでは、30歳台の男性が道端に土下座しており、小さな看板には「妻が難病で400ドルの手術代が足りません。助けてください!」と書かれています。
いつもロシアの物貰いは比較的礼儀正しいのには驚かされます。一度サンクトペテルブルグ(当時はレニングラード)の地下鉄のなかで、30歳過ぎの女性が子供抱いてドアをあけて中にはいり、「皆さん、こういったことをお願いするのはとても心苦しいのですが、私は離婚して、子供を抱えて大変苦労しております。皆様方のお心におすがりするよりはほかに道がありません。どうかご協力をよろしくお願いします。」とキチンと挨拶をして、お客の一人一人に手を出して、何がしかの小銭を恵んでもらっていました。
 しかし、あちこち街角にたむろしているジプシーはまったく違い、礼儀作法も何もありませんし、うっかりすると、10人以上の裸足の薄汚れた幼稚園か10歳以下の子供たちに飛びつかれ、手や足にしがみつかれ、カバンやポケットの中のものを盗まれてしまいます。そして、一度哀れそうなジプシーの老婆に小銭を与えたことがありますが、しわがれ声を荒げてもっと出せと催促する始末でした。

F共産党の凋落〜新旧世代の対立〜
 一度モスクワでこんなことも見かけました。それは丁度エリツインが再選された1996年の大統領選挙のときでしたが、モスクワの地下鉄通路で再建された共産党員たちがビラをくばっていました。すると、ある青年がわざわざビラを

赤の広場でスターリンの肖像を掲げる
共産党支持者
くれといって近寄ってきて、ビラを受け取るとすぐに丸めて床にたたきつけ、足で踏みにじり、「まだこんなことしているのか!共産党がどんなに社会をだめにしたか忘れたのか!」と叫びました。
すると、一人の老婆が血相変えて割って入り、その青年に食って掛かりはじめました。
そして、胸にぶら下げた数個の勲章を見せて、「私はこういうものだ、しかし、今はこうして暮らしをたてている。これが今のソ連社会だ!エリツインが何をしてきたのか許すことはできない」とカーデガンの胸を開き首にぶら下げた物乞いの言葉がかかれているダンボール紙を見せたのです。
Gニューリッチ=新ロシア人の出現
 しかし、そういった乞食や失業者があふれているかと思えば、モスクワを中心に極端な金持ち富裕層も出現しており、以前と違い、大金持ち=いわゆるニューリッチといわれる人々もたくさんいます。
モスクワ郊外にはエレベーター付のまるでお城と見間違うような別荘地帯が延々と続く一角があり、この地域への出入り口は自動小銃で武装したガードマンが護衛しているそうです。
 また、最近聞いた話ですが、新潟に定期的に現れるクルーザーの輸入ブローカーは70フィート以上の一億円以上もする豪華キャビン付のプレジャーボートを買いあさっているそうです。
 先日富山に買い付けにきた中古車ブローカーはランドクルーザーなどのジープばかり50台(少なくとも1億円以上)をオークションで買いあさり、全額前金をキチンと支払って、船積みして帰国したそうです。現在ロシアの経済成長率は年+5〜+8%といわれており、石油・ガスの海外輸出で潤うモスクワと産業の立ち直りが遅れている地方との経済格差の問題があるにせよ、全体的には大きく上向いてきていることだけは確かです。
そういったニューリッチと言われる新ロシア人の小話もご紹介します。
― モスクワの外車販売店に金の豪華なブレスレットやネックレスを身につけた新ロシア人が現れ、あちらこちらを金やダイヤモンドで装飾したアメリカ車を購入したいと希望します。すると、店員が「誠にありがとうございます」と購入手続きを進め、ふと「お客様、確か先週にも同じ車をお買い上げいただきましたが、あの車はどうされましたか?」と聞きますと「あれは、一週間も乗ってもう灰皿が汚れたので、スクラップしたよ!」と答えたというのです。―
H中国人の来襲と不法滞在者の増加
最近ロシア人が海外に渡航するのが自由になったのと同時に、外国人がロシアに入国するのも比較的簡単になってきました。しかし、ウラジオストークなどの極東地方では相当数の中国人が合法的または不法に大量に流入してきており、なまこ等の水産物の密漁、森林の密伐採とそれらの大規模な密輸、そして不法滞在などの問題が大きくなりとても深刻な様相を見せています。
広大な領土の極東ロシアには全て合わせてもせいぜい700万人くらいの人口しかありません、しかも少しづつ出生率が減少傾向にあり、更に便利で生活条件の整った、ロシアヨーロッパ部への移住が加速し、人口がどんどん減少気味です。以前ソ連時代には極東ロシアやサハリン、カムチャッカなどを開発する政府の方針に協力して移住すれば、地域によって少し違いますが普通の1,5倍―2倍ぐらいの収入が保証され、その他様々な優遇策がとられていたため、ロシア中央部、ウクライナ、ベラルーシアなどからの多くの移住者がありました。しかし、ソ連崩壊後はそういった優遇策もなくなり、シベリアや極東ロシアに住むメリットがほとんどなくなってしまい、急速に魅力を失っています。
ウラジオストークやハバロフスクからほんの数キロから数十キロの国境を越えれば、旧満州=いわゆる中国東北部であり(ハルビンまででも700キロの距離しかありません)そこには数億人の中国人がひしめいています。
 特に最近元中国領土でもあった沿海州の首都ウラジオストークは街中中国人だらけといってもよく、担ぎやからカジノで豪遊し、消費物資を買いあさるリッチな中国人まであらゆる階層の中国人があふれかえっています。一説には不法滞在の中国人が極東全部で100万人ほどいるのではなかといわれています。
また、先日ウラジオストーク中心部のホテルの地下にあるストリップを後学のために見物いたしましたが、私以外のお客は全て中国人で、かなりのチップをはずみ、ストリッパーたちは私には目もくれないで、彼らに擦り寄り、しきりに笑顔で膝の上に乗って腰を振りサービスしていました。
Iマフィアの暗躍
 残念ながらあまりマフィアとは今まで親しいお付き合いがありませんので、詳しいお話はできませんが、又聞きのような形で私が聞いた範囲でお話しさせていただきます。
 旧ソ連時代からロシアにはマフィアと呼ばれる特殊な闇のビジネス集団があったようで、例えば以前モスクワで私の会社が見本市に出展したことがあります。そのとき、見本市会場の事務局に会場の一駒を申し込みしますと、あるモスクワの研究所長から連絡があり、よい提案がありました。それは、その当時見本市の会場費はロシア企業と外国企業とでは大差があり、もしそのロシアの研究所が確保した会場の一部を又借りすれば、同じ面積で通常料金だと約100万円ですが、半額の50万円でお貸ししますというものでした。早速とても経費節減になると思い合意書を交わし、見本市が始まりました。
 すると、2−3日後にスポーツウエアー姿の青年が現れ、名前も告げず、私はこのあたりを取り仕切っているものだ、50万円お前は支払うのを怠っているので、明日の12時までに支払えと要求してきました。
何がなんだかわけがわからず、又貸ししてくれた研究所所長に早速連絡すると、「まったく問題ありません取り合わないで放っておいてください」、とのことでした。
 しかし、その翌日約束の時間が近づきますと、スーツにネクタイ姿の見知らぬ別の青年が会場に現れ、私の会社のブースに黙って座りました。すると、12時きっかりに集金に現れた件のスポーツウエアー姿の青年は、その二人目の青年が座っているのを見ると、「分かりました」と一言言ってすぐ姿を消しました。
それで、そのときは全て終わりでしたが、その後1ケ月後に研究所所長から電話があり、奥さんが自宅で襲われ、顔を滅多切りされたと知らせてきました。
どうやらこの研究所所長はこういった会場の又貸しを外国企業相手にたくさん仕掛けて私腹を肥やしていたらしく、目をつけられていたようです。そして、別の用心棒に依頼して集金人の邪魔をしたので、手ひどい報復をされたということのようでした。
 また、レストランや商店を開店すると必ず「クリ−シャ=安全の屋根の意」になってやると提案があり、いわゆる用心棒代=みかじめ料を収めろと要求してきます。もし、邪険にそれを断れば、当然安全に商売ができなくなることになります。富山県高岡市にある港湾関係の会社が、以前ウラジオストークに「さくら」という和食レストランを開店しましたが、しばらくすると、理由は定かではありませんが、店内を滅茶苦茶に壊されてしまったということです。

〜日本は一攫千金・宝の山の隣国〜
 先日新潟で逮捕されたジープ窃盗犯は3年ほど前にやはり富山で窃盗容疑で逮捕された同一人物だったそうです。私の友人が取り調べ通訳に従事しましたが、この青年は、以前ペレストロイカが始まり自由に商売ができるようになったので、早速夫婦で中国やトルコに出かけて衣類などの買い付けを行い、担ぎやスタイルでロシアに持ち帰り、それらを販売して、結構よい商売になっていたというのです。ところが、その資金数千ドルを外貨で借金して国内ではルーブルで販売していましたが、数年前1998年夏、突然何の予告もなくドルとルーブルの為替レートが急激に変
化し、しかも、ルーブルは一夜にして4分の1から5分の1に下落してしまい、借金が返せなくなってしまったそうです。
例えば5千ドル借り入れていた元本が一夜にして突然2万ドル〜2万5千ドルに膨張してしまったことになります。現在ロシア人男性の平均的給与は100―300ドル、ウエートレスなどをしている若い娘さんの給与は40―50ドルが相場ですから、日本の感覚で言えば、2万ドルはおそらく1千万円くらいの金額と同じくらいの貨幣価値があります。元本だけでもこれではとても返せません。
 しかも、こういったいわば闇金融などの借入金は利息は月30%以上が常識です。この青年は厳しい取り立てに追われ、まず指を車のドアに挟まれて拷問を受け、それでも折れなかったので、今度は鉄板で手をたたかれ、富山に泥棒に出かけることを約束させられたのだそうです。
それが一回目の逮捕となり、初犯だったため、幸い実刑にならず、執行猶予がついて強制退去となってまもなく帰国しました。しかし、待ち受けていたのは更に激しい取立てと拷問だったそうです。その拷問の様子は友人が通訳していても痛々しくてつらいほどのもので、まず、金属バットのような棍棒で顔をたたかれて歯を6本折られ、最後には足にライフルを撃ち込まれ、重傷を負い、家の近くの道路に投げ捨てられたということです。警察医のかたがおできの傷跡と間違われたとかですが、確かに左のふくらはぎに丸い放射状にケロイド状の傷跡があったそうです。そして、この青年はその後しばらく入院生活を送り、再度新潟にきてジープの窃盗を繰り返していたとのことです。
 こういった形で、自由に商売ができる社会になったのを境に、個人で様々なビジネスに手を出し、数年前の経済危機で突然借金ができてしまい、マフィヤの取立に追われて日本で一稼ぎしようと押し寄せてくるロシア人が最近多いように思われます。
 また、最近はモスクワの巨大資本が極東ロシアに続々資本投下を始め、とくに大きなお金の動く海運関係や水産関係のあらゆる有力企業の買占めと支配に乗り出し、抵抗するものは容赦なく殺害されています。
昨年3月にはナホトカの隣にあるボストーチニー港の港湾管理会社社長ボチコフさんとその部下の合計4名が同時に事務所を出たところで、一斉に射殺され、現在はナホトカ港湾管理会社の副社長であった若いポポフさんが社長に就任しています。
 要するにマフィアとは単なる犯罪集団ではなく、非合法な手段もいとわないで経済的利益を求めて暗躍する組織のことのようです。
〜再起の道を探り、日露ビジネスセンター開設〜
先ほど申し上げましたように、1993年にソ連が崩壊し、先行きが全く読めない混乱が続き、ソ連とのビジネスはほとんど壊滅状態になり、私の経営していた会社も阪神大震災のあった年の3月にとうとう倒産の憂き目にあってしまいました。
 そのとき、私は53歳でしたが、一瞬にして全てを失い、どうしてまた立ち上がればよいのか、何の方針もなく、文字通り茫然自失の状態でした。
 その後、新聞広告の求人やアルバイトニュースを目を皿のようにして読み漁り、「年齢不問」の条件を見つけると即座に飛びついて面接に向かい、ありとあらゆる臨時の肉体労働の仕事にすがり付いて糊口を凌ぎました。トラック運転手はもちろん、ガードマン、引越し手伝い、倉庫のかたずけ、たこ焼き屋手伝い、中古バイク収集業、リフォーム営業マン、小学校宿直員など、なれない仕事に唇を噛んで取り組みました。

毎週金曜日には街角で華やかな結婚式が見られる
そして、間違っても私を奈落の底に突き落とした、あのロシアとは二度ともう関わりを持ちたくないと思い続けていました。しかし、19歳の時から長らく関わってきた「ロシア」を取り去れば、私は単なる「肥えた中年男」でしかなく、全く社会的存在価値の乏しい人間であることをいやと言うほど感じさせられました。
 そこで、考え抜いた末に再度ロシアに関する仕事に取り組むことにし、友人の事務所に机ひとつを置かせてもらい、何のあてもありませんでしたが「日露交流センター」(平成15年日露ビジネスセンターと改称)と名付け、再び細々と活動をはじめました。
幸い、まもなく長崎国際テレビから「ウラジオストーク日本人街」のルポルタージュ撮影時のコーデイネーターとして事前調査と撮影クルーの通訳業務を任されたり、エルミタージュ美術館に所蔵する日本刀の調査鑑定団を引率してサンクトペテルブルグに出かけるなど、少しづつロシア関連の仕事の依頼が来るようになり、本格的にロシア語通訳、翻訳、市場調査や文化交流の企画などの仕事に取り組み始めました。
 その後、数年間は毎年1−2ケ月、水産庁密漁取締りパトロール船に乗り組み、アリューシャン列島近くまで航海したり、北方領土周辺をパトロールしたりする水産庁嘱託乗船通訳官の仕事にもついていました。
 そして、ペレストロイカが急速に進み、ロシアも開放された新しい国に生まれ変わり、再度日露の経済・文化交流も活性化し始め、最近では様々なロシア語通訳、翻訳更に貿易コンサルテーションなどの仕事が漸増してきました。
 そこで、思い切って3年前大阪に事務所を開設し、引き続き極東ロシアの拠点都市=ウラジオストークにも事務所を開き、双方に日本語堪能な3名のロシア人常勤スタッフを雇用し、体勢を整えることができました。

町々にそびえるロシア正教会
 ところで、最近、ロシアでは海外渡航がまったく自由になり、新潟、富山、北海道などには航空機や船舶に乗船して毎日多数のロシア人が来日しており、更に外国人登録を行い正規に長期滞在する旧ソ連諸国の人々が約1万人近くも在住し、その中には残念ながら最初から非合法な手段や犯罪で日本で一稼ぎするのを目的にした、よからぬ集団も多数混じっており、各地で様々な犯罪も多発しています。
しかし、ロシアには立派なビジネスマンもたくさんおれば、善良な普通の庶民もたくさんいて、そちらの方が圧倒的多数を占めているのです。犯罪者はあくまで全体の中では極一部なのだということを、是非十分ご理解いただきたいと思います。
何しろ、ロシアの犯罪者にとっては、日本は宝の山です。正に盗んで欲しいとでも言わんばかりに、どこにでも無防備にランドクルーザーがとめてあります。
それらを一台でもうまく盗み出し、ロシアに送り出せば、数年分の生活費が稼ぎ出せる、まさに一獲千金の宝物=ランドクルーザーが野外の駐車場に転がっているのです。彼らの手にかかれば、ジープでも約10分くらいで乗り逃げされます。
 ロシアの野外駐車場というのは、物々しい鉄条網の中に獰猛なシェパード数頭が自由に駆け巡れるようにつないであり、火の見やぐらのような監視塔では24時間体制で、時にはライフル片手に監視しています。そういう国の人間からみれば、日本は手っ取り早く荒稼ぎできる隣の便利な国なのです。
 新潟空港からは、最近週4回〜5回ロシア向けに航空機が発着していますが、空港には出稼ぎにきていたロシア人女性の見送りに地方から付き添ってきている、かなりの年齢のお年寄りを良く見かけます。
〜日本各地に女王様と奴隷〜
 そういった風景はいつもワンパターンで、ロシア女性は金髪の髪をなびかせ、まるで女王様のようにさっそうと空港内を闊歩し、お土産の袋をたくさん抱えた、初老の日本人男性がまるで従僕のように後を従い、女性がみやげ物店で、赤いマニュキアの細い指で指差す品を、更に追加に嬉しそうに買い与えています。まさにこれは「女王様と奴隷」ですが、これもまた幅広い意味での平和な『日露友好交流』とも言えるでしょう。
しかし、時々、日本滞在中とんでもない目に合わされ、しかも、働いたお金も一銭ももらえず、ゲートのところでパスポートと航空券だけ渡されて、泣きじゃくりながら飛行機に乗り込む女性もいるとのことです。
 最近では韓国・中国を始め、その他、グアム島、サイパン島にまでロシア人ホステスやダンサーが進出し、こういったいわゆるナイト・エンジェル(夜の天使!)を送り出すプロダクションや日本側の斡旋業者は大儲けしています。日ロ双方それぞれ一人1ヶ月10万円の斡旋料金だそうです!
さて、よきにつけ悪しきにつけ、日本とロシアは最も近い隣国です。

ボリショイサーカスのピエロとともに
新潟や富山からは7〜800キロ=飛行機で1時間少しでウラジオスートクです。稚内からはサハリンの先端の岬が目視できる距離にあります。
しかも、歴史を紐解けば、江戸時代の中ごろから交流が始まり、相互によく理解しあい、平和にお付き合いをしてきた時期のほうがはるかに長く、また、文化的にもロシアは日本に大きな影響を与えています。
話が長くなりますので、このあたりの詳しいことはまたの機会といたしますが、明治日本の文学者に大きな影響を与え、日本の近代文学の基礎になったのも、ロシアのトルストイ
やツルゲーネフ、チェホフの文学です。また、クラシックバレエを日本に根付かせたのは、亡命者のパブロワ姉妹でありバイオリンを日本に普及させたのも、小野アンナさんという、国際結婚で日本に定住したロシア人女性です。
勿論、犯罪者を含む多種多様なロシア人が日本に押し寄せ、一部治安を乱しているのは、現状では一方的にロシア側の責任です。これは実に困った現象ですが、最近経済も目覚しい回復基調にあるロシアはまもなく秩序をとりもどし、よき隣人としてお付き合いができる日がきっと来ると信じています。
 また、世論調査によれば、残念ながら日本人の中では、ロシア人が嫌いと言う人が圧倒的多数を占めているとの事ですが、あまり知られていないようですが、ロシア人は日本や日本人が大好きです。
 2―3年前ウラジオストークの街かどで、ある老婦人がつかつかと私のそばに近寄って来ました。そして、私の顔を見つめて「私たちはあなた方をとっても尊敬しています。あなた方の国をとっても大好きです!」と叫んだのです。見ればなにやら袋を手にしているので、私は何か物売りか物乞いでもするのかと一瞬身構えました。すると、この老婦人はあらためて、「あなた方のことがだーい好きです!」ともう一回言うと、くるりと向きを変えて、すたすた去っていきました。彼女は純粋にその一言が日本人に伝えたかっただけなのです。私はそのときこの純情で心のきれいな婦人のことを一瞬でも物売りや、物乞いに勘違いしたことをとても恥ずかしく思いました。
 もともと芸術や文化水準も高く、科学技術や学問も発達した大きな力のあるロシアが今後一日も早く社会秩序を回復して正常化し、我々日本人もロシア人も相互に「あなたの国がだーい好きです」と胸を張って言えるようになる日を目指して、これからも様々な日露交流の仕事に取り組んでゆきたいと思っています。 
(了 2003年9月7日)
掲載の写真提供(一部)は弊社業務提携先のウラジオストーク所在のFregat Aero社(旅行社)社員の Ms Dina Borodulya さんです。