北京空港で大騒動〜外貨両替機作動せず〜
先日4月4日〜10日の期間、北京経由ウランバートルを経て、車輌で約600キロの草原を駆け抜け、ロシア連邦領内バイカル湖畔のブリヤートモンゴル自治共和国の首都ウラン・ウデを訪問し、3日間の商談を終えて無事帰国しました。今回訪問した各地はすべてはじめてのところばかりで、極めて興味深い旅でした。また、北京は行き帰りとも空港内のみ、しかも数時間と
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やっと両替できた外貨両替機とともに |
極めて短時間の滞在でした。待ち時間が長いのでコーヒーでもと思い、到着後直ぐに外貨交換機に100ドル札を挿入しましたが、その途端故障の表示がでてしまいました。あわてて大騒ぎしていると、色々な人が助け船を出してくれ、両替機に100ドルを差し込んでから約1時間ののち、ようやく中国元に両替することができ汗を拭きながら喫茶店に駆け込みました。
空港内の食堂では料理の価格が30¥とか20¥とか表示してあり、中国はとても物価が安いと大喜びしていると、それはあくまで中国元のことで、缶ビール1本とカレーライスで約1800円と超高価なことに、またまたびっくり仰天しました。そして、北京空港では乗り継ぎ便の飛行機が大幅に遅延し、臙脂色の衣服をまとったラマ教僧侶たちと一緒に約10時間待機ののち、ようやくウランバートル空港に降り立ったのは翌朝2時過ぎで、本当にくたくた状態で、はじめてのモンゴルに到着、爆睡しました。
いわゆる外モンゴルは総人口250万人ほどのうち約半分が首都ウランバートルに住んでおり、とにかくウランバートルは、高層ビルと日本車にあふれ、カラオケ、デイスコ、ナイトクラブなど何でもそろった大都会でした。街はロシアの田舎町を少しほこりっぽくしたといった感じで、横断歩道も陸橋もない道路を車がわがもの顔で疾走しており、その渋滞の中を、モンゴル人たちは器用に道路をすいすいと横断してゆくのには驚かされました。
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ウランバートル市内の様子 |
さて、モンゴルでの“初夜”を無事過ごし、翌朝10時から日本車で迎えに来てくれた、ガイド役のモンゴル人青年とともに、放牧している羊、牛やロバの群れに注意を払いながら、延々と続くのどかな草原の中を、一路400キロの道のりをひた走りに駆け抜け、午後3時過ぎには国境の町、スホバートルに到着、ボルシチや豚まんなどで昼食をとり、国境に向かいました。
ロシア・モンゴル国境にはヤミ両替商がたむろ
〜2ケ国の税関・入管通過に3時間〜
国境前の道路には人があふれており、数人の男女が次々車に接近してきて、窓越しに私のガイド役のモンゴル人青年となにやら協議していました。これはモンゴルの通貨トウグリク(TG)とロシアの通貨ルーブルを交換する闇商人のようであり、やがて化粧の濃い中年女性と話がまとまり、後部座席に招き入れ、手早く外貨交換を終えて、いざ出陣である。
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モンゴル料理レストラン前にて |
モンゴル側からロシア領土の街が見え隠れする距離ですが、入管、税関手続きを2回繰り返し、何と国境通過に3時間余りの時間がかかり、くたくたでロシア領土に入国となりました。ロシア領土内にはいると直ぐのキャフタというところに新規取引先の事務所があり、そこで数名のブリヤートモンゴル人たちが次々と握手で出迎えてくれ、感激しました。
彼らは現在日本〜中国〜モンゴル〜ロシアを結ぶ物流拠点を建設中とのことで、もし、この構想が実現できれば、現在主流となってはいるが、日本製新車や中古車などの物流量の急激な増加で、実質パンク状態の、ウラジオストーク経由でのシベリア各地への物資輸送ルートより、遙かに低価格で輸送時間も大幅に短縮でき競争力のある有利な“回廊”が出来上がると力説。是非そういった国際運送業務の面でもビジネスパートナーとして協力をしてくれと懇願されました。更に今後独自にある程度の中古自動車の買い付け輸入と、それらのシベリアでの販売を行うため、代表者を大阪で受け入れて欲しいとの提案も受け、直ちに合意しました。
そして、遅い昼食をともにしたあと、ウラン・ウデまで約300キロの道のりを、再度数時間車に揺られて、ホテル・ブリヤートに到着、やっとロシア語の通じる街に落ちつきました。
成果を挙げた長距離遠征
〜年商倍増の5億円を一気に目指す〜
さて、今回の出張は北京〜ウランバートル〜ウラン・ウデと遠路はるばる遠征したかいがあり、今後うまく推移すれば、一気に年商倍増の5−6億円突破に結びつきそうで、更に新規に国際物流事業にも参入できる可能性もあり、大きなビジネスチャンスが舞い込みそうで、心が躍り始めました。翌日事務所に赴き、業務協定書に調印のあと、派手な大型ゲルの中にあるモンゴル料理レストランに招待され、美女のウエイトレスに囲まれてバイカル湖のオムリという有名な淡水魚や子馬の肝臓のペーストなどの珍味をご馳走になり、大満足の一日でした。
4ヶ国に分散居住するモンゴル民族
〜中国・ロシア・モンゴルに約600万人〜
ところで、鎌倉時代に日本征服のため九州に押し寄せたいわゆる“蒙古襲来”(元寇の役)で
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郊外にそびえるラマ教寺院 |
有名なモンゴル国はチンギスハンの時代には一大帝国を築き上げ、ヨーロッパ各地にまで進出した強国であった。しかし、現在は中国の一部となった内モンゴルに約200万人、そして、朝青龍、白鳳などの故郷であるいわゆる外モンゴルと呼ばれるモンゴル国に約250万人、そして、ロシア領土内にあるブリヤート・モンゴルやツバ、カラムイキアなどに約100万人が分散居住している、歴史的経緯の若干複雑な民族である。今回私が訪問したウラン・ウデはブリヤート・モンゴル自治共和国の首都であり、人口40万人の小都市であり、劇場やアパートなどを戦後シベリアに抑留された日本人捕虜が多数建設したとのことで、日本にもなじみの深い街であった。この町はバイカル湖から約100キロのところにあり、テレビもロシア語、モンゴル語双方で放送されており、義務教育の学校でもモンゴル語で授業が行われており、ロシア人生徒も国語として学習しているそうである。郊外には旧ソ連時代には宗教が否定されて迫害され、ほとんど取り壊されていたラマ教寺院の復興が最近盛んで、郊外には多数の極彩色に彩られたラマ教寺院が甍をそびやかしていた。
さて、あっという間に滞在期間の3日間が過ぎ去り、再度国境の町キャフタに向かう。朝8時頃ウラン・ウデを出発し、12時頃には国境の近くの食堂に入り、軽い昼食をとったのち、入管・税関を2回通り、再びモンゴルに入国。
草原をひた走りに走り続け、私も羊や牛の群に気を付けながら途中100キロほど運転させてもらい、ドライブを楽しんだ。私が運転中突然車輪がガタガタ音を立て始め、パンクに気づく。
早速モンゴル人ガイドの青年が、予備の車輪を取り出し、10分ほどで手際よくタイヤ交換を終了し、再度帰路に就く。パンクしたタイヤには立派なねじ釘が刺さっており、予備タイヤなしで万一走っていれば、100キロも200キロも走っても、時折羊や牛の群れはいても、どこまでものんびり草原が続くばかりで、日本のように直ぐガソリンスタンドがあるわけでもなければ、JAFを呼ぶこともできず、万事休すのところであった。
そして、途中の田舎町で自動車用品屋を見つけ、念のため古ぼけた中古チューブを購入し、タイヤにはめ込んでもらい、予備タイヤを車に積載して再度出発することとなった。
“羊頭狗肉”の食堂もあり
〜一路懐かしのウランバートルに向かう〜
道すがら食堂が目に付いたので、ガイドの青年に「昼食を採って休憩しませんか」と誘うと、「この町では何も食べたくない」と言うではないか。
何故かと言えば、食堂で出てくる肉が、もしかしたら、羊と偽って犬肉を出しているかも知れず、俺は「犬肉」は食いたくないとのことであった。正に文字通り、“羊頭狗肉”の世界である。また、途中で家族全員を乗せてのんびりとロバに引かれる馬車に出会い、写真撮影する。ガイドの青年によると彼らは山裾にある巨木に宮参りに行く途中とのことであった。ところで、このモンゴル人青年はかなりアクセントのあるロシア語を話し、“流暢な(?)ロシア語使い”の私とは、たいていのことは相互に理解できるのである。
そうこうしているうちに、懐かしいウランバートル市街が見えはじめ、カラオケ、デイスコなどの看板もめだつ市内部にさしかかったとき、高々と翻るロシア国旗を掲げた、ひときわ目立つ一等地に大きなロシア大使館のビルデイングが見え始めた。
因みに、モンゴル語はロシア文字と同じキリル文字を表音文字として使用しており、旧ソ連時代に教育を受けた世代はすべてロシア語が理解できるとのことで、市内の看板もすべてキリル文字で表示してあり、ロシア語をそのまま外来語として使用する言葉も結構多いいとのことであった。帰路にはウランバートルのホテルを変更し、日本人経営の一流ホテルとして名高い、カーン・パレスホテルに投宿することとした。このホテルには日本人シェフのいる和食レストラン“さくら”があり、寿司、天ぷら、幕の内風定食なども全てそろっており、価格的にも味覚も納得できるものであった。モンゴルビールもなかなか行けるもので、とくに黒ビールは本当においしかった。ウエイトレスさんも皆さん白鳳や朝青龍の姉妹のような感じで、日本人と見違えるような美形ばかりで、しかも、結構日本語堪能で、しばし憩いの時を過ごすことができた。
寿司・刺身に舌鼓・日本人うり二つのウエイトレスさんに
ご満悦
空港送迎の際付き添ってくれた通訳ガイドの女性もとても親切で、道すがら様々な話を聞いた。彼女は今日本で上映中の映画「蒼い狼」撮影部隊の通訳も行ったとかで、日本を一度も訪問したことがないとのことであったが、とても流暢な日本語使いであった。
また、最近ロマンを求めて押し寄せる観光客に混じって、ウランバートルに銀行口座を開設に来る日本人も増加しており、現地通貨に代えて定期預金にすれば、年率20%にもなるということでした。しかも、地下資源の豊富なモンゴルへの外資からの投資も順調で、現地通貨の為替レートの変動がほとんどなく、為替リスクも最小のため、オーストラリアやニュージーランドにおいていた資金を、モンゴルに移動する日本人顧客が増加中と
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警察官が警備する中古車店 |
のことであった。
また、ウランバートルでは現在日本車のブームが起きており、街中日本車があふれているといった感で、中古自動車販売店もいくつか目に付いた。ホテル近くの販売店を訪問すると、ピストルを腰にぶら下げた警官が警護する販売店は、頑丈な鉄の檻に囲まれ、出入り口も人がやっと通れるほどの通路があけられているのみで、品揃えも全くよくなく、しかもほとんどの車は埃だらけという状態で展示されていた。それでもまだまだモンゴルでは車は高嶺の花と言った感じである。
とにかく今回のモンゴル〜ウラン・ウデへの出張は極めて意義深く、新たなビジネスチャンス開拓の大きな成果のある旅であった。一年後には年商を倍増し、大幅な利益増を果たして、モンゴルの草原や湖畔でゆっくりと休養したいものである。
(了) 平成19年4月25日
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