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・ウクライナ娘の目に映った“山陰の小京都”
アナスターシャ・ミロシニチェンコ
04年6月更新
・歴史と芸術の古都・ペテルブルグに暮らして
スベトラーナ・ペトレンコ
04年6月更新
在留日本人約30人が集いウラジオストーク総領事館で新年会
外間 進
04年2月更新





〜鯉の泳ぐ掘り割りと武家屋敷の町・津和野を旅して〜
東京学芸大学・国費留学生      
アナスターシャ・ミロシニチェンコ
自然に恵まれた「日本」を再発見
“山陰の小京都”津和野町。美しい自然に恵まれたこの辺りは今まで見た日本とまったく違う。5年前に修学旅行で、広島・宮島の見物後、バスに乗って島根県を通り、山口県の山間の曲がりくねった道路を抜けてきた。

その時、鷺舞や掘割に遊ぶ鯉で有名な津和野町と山口県の岩国・錦帯橋に寄ってきた。記憶に残っていたのは、その素晴らしい橋と白壁と格子窓の残る武家屋敷沿いの掘割に遊ぶ鯉の群。まさか、また5年ぶりに訪れることになると思わなかった。
ハリコフ(人口200万)に育った都会っ子
ウクライナの第二の都市ハリコフで生まれた私は2百万人以下の人口の町に住んだことはない。人・交通機関・自動車にありふえている東京の生活環境やテンポに素早く馴染んできた。都会でしか暮らしてこなかった私には美しい自然に接するとてもよい機会だった。日本の友人に「4月、島根県へ行って来るわ」と言ったところ、「島根?全国全県を言いなさいと言われたら島根県は出てこないなぁ〜」なんて答えもあった。鳥取県出身の友達だけが「森鴎外の出身地なの。素晴らしいとこだよ。おいしい空気を精一杯吸って帰ってきなさい」と。
松江から益田乗換え津和野駅に到着。松江から特急で2時間かけて日本海側を通った。電車は何度もトンネルを抜けた。山々の間からは畑やら森が見え、空には日本海のような青空が広がっていた。乗り換えの益田駅で1時間半に1本の電車を待つ。興味を持って周りを見ていたら、なんか変だと思ったが、最初は理由が分からなかった。高層ビルのない町、電車の路線の少ない田舎の駅を始めて見たわけでもないが、そんなに広い無限の青空を東京で見たことはない気がした。やっと分かった。どこを見ても電車の高熱電線がない!一体どんな電車で津和野まで行くのかな。
好奇心を胸に抱いて駅で待っていると、一両編成のディーゼル列車がやって来た。乗客は少なく、主にお年寄りやお子さん。みずみずしい若葉若草で生い茂られていた山々に挟んでいた谷を走っている一両編成の列車だけが走っている…
津和野駅で降りたら、道をめったに人が歩いていないことに気が付いた。統計資料によると、津和野町の人口は6000人だが、実際に住んでいるのは2000人弱。若者は相変わらず大きな都市へ出世に出て行く。ウクライナと全く同じだ。
町の中の店は殆ど名物商売で観光客向きなので、コンビニはない。無論ATMもない。「田舎の生活テンポは都会と違うよ。ゆっくりだよ、津和野は。平日は朝7-8時から始まり、夜6-7時に終わりだ。仕事へ行くには自動車。仕事が終わってから同僚と飲みに行っても終電まで間に合うように努力する習慣はない。急ぐ必要はない、田舎は…」と教えてもらった。食品を売っている店は夜6-7時閉店。飲食店や居酒屋は10時弱。夜1-2時に寝る私はパソコンと向き合って遊んでいた。泊まっていた民宿のすぐ側にビールやタバコを売っている自販機(夜11時まで販売となります)があってよかった。
落城する大坂城から千姫を救った坂崎出羽守の居城跡にて

「どこから来ましたか」と聞かれたら、「東京です…」と答えてしまう私。津和野のある雰囲気のいい喫茶店で。お店の人も客も私に気さくに話しをかけてくる。津和野の人々は皆朗らかで親切な人だ。
「つわぶきの茂る野」が名前の起源
「つわぶきが生い茂る野」から由来してきた津和野は山々で囲まれている山谷にある。駅を降りると目の前に優美な山容をもつ青野山の姿が見えてくる。標高908mの青野山を津和野の小学生は毎年ハイキングし、熊を驚かせ逃げさせるために鈴を持って昇っていくそうだ。私も昇ってみたいと言ったら「熊に遭ったら危険だ…熊ちゃんはかわいそうじゃない」と。
どの季節でも魅力的と言われる津和野に4月1日、丁度桜の満開の時期に来た。薄白い泡のような桜の花は緑に溢れている山を背にして鮮やかに見える。掘割の鯉が武家屋敷の桜の木から落ちた花を食べようとしている。
仕事の合間に名所を回っていこうと思い、自転車で太鼓谷稲成神社まで行き、津和野川の近くの駐輪所で自転車を止め、町を見下ろしながら鳥居のトンネルをてくてくと登って本殿へ。神社の右手に城山行きの山道を見つけて城跡まで登って行った。中国山地の小さな盆地の津和野は霧が深く、谷間から流れ出る濃い霧に包まれた山谷を青野山から見下ろすと城山はまるで白い海を漂っている島のように見えるそうだ。残念ながら、その景色は見ることが出来なかったが、とても澄んだ空で春の柔らかな太陽の日差しが津和野の町を照らし包み込む景色は私の心も朗らかにしてくれた。「SL山口号」汽車が走っていて、汽笛を鳴らし山々にその音を響かせている。
母と久しぶりの再会を楽しむ(お台場にて)

「一人で津和野城跡に行ってきた」とウクライナに住む両親に電話で教えたら、「危険じゃない?女の子は一人であんな散歩するなんて」と母が心配し始めた。「大丈夫!城山側は熊が出て来ないよ」と答えると、「ウクライナでは山の中みたいな、誰もいない地域では動物より人間に遭うのが一番怖い」。確かに、津和野みたいに安らいだ所では人間の危なさが忘れてしまいそうだ。
言語学部卒業生の私にはイズモ弁は日本語の面白い事柄である。「そうですか」の代わりに「そげかね」と。東京・横浜の文末句の「じゃん」はイズモ弁では「きぇーん」って。「今晩は」は「ばんじまして〜」って私も滞在中使い大いに楽しんだ。
 東京での慌しく過ごしている私にとって津和野の自然と人々は私の心と体に安らぎを与えてくれ、元気にしてくれた。東京で忙しい毎日をおくっている私の友人や知人にもここ津和野での体験を伝えていきたいと思っている。(平成16年5月)







〜スベトラーナの独白日記〜
スベトラーナ・ペトレンコ(サンクトペテルブルグ在住)
〜 私と「彼」のロマンスは24年前に始まって、今まで続いてる。まるで魅力的なストーリーのようだ。毎朝、目覚めて、「彼」を眺めながら「おはよう」と声をかける。「彼」が私の運命、現実になった夢、私のこころのやすらぎだ。毎日、「彼」は少し違うが、毎日、実に美しい。〜
     
 これが − 私の街、サンクト・ペテルブルグだ。窓から彼を見ていて、今日の街の上はどんな空かなぁと思っている。サンクトペテルブルグの空...毎日違う空だ。ある日、眩しいほど鮮青で、嬉しい空であり、ある時には、サンクトペテルブルグの通りと都会人を雨の涙で洗ううっとうしく曇っている空だ。が、どの空でも、私は好きだ。朝、ペテルブルグに、フィンランド湾の近くのマンションの小さな部屋の窓から、愛しい街に挨拶して、新しい日の物語を始める。
イサクスキー寺院を背にする筆者・スベータさん

私の名はペトレンコ・スヴェトラーナ。ごく一般的な24才のロシアの女性だ。サンクトペテルブルグで生まれたときから、今もなお住んでいる。ペテルブルグっ子だと言える。
街に心を奪われて、生きている...でも、ときどき、街の美しさが日常生活の俗事に負ける。そのとき、ペテルブルグの人の顔を見ると、考えている。やはり、 “北の首都”の都会人の私たちは、時にはその街の美しさに気づかないで、暮らしている。朝、仕事に急いで、夜、仕事を終えて、一刻も早く帰ろうと急いで、バスの窓から、エルミタージュ美術館や壮大なイサク寺院を見ながら、世事のことを考える。
だが、外国人観光客にとってサンクトペテルブルグはまた違ったものに見えるだろう...
貴方も、サンクトペテルブルグという名前を聞くと、何を想像するでしょう?
私は2002年にサンクトペテルブルグの東洋大学を卒業した。あのときから、もう二年ほど、日本人観光客のガイドとして仕事をしている。顔に感心を浮かべる観光客を見ると、私の心も非常に嬉しい。私の街は、本当に綺麗だと確信している。
サンクトペテルブルグは創立された頃から、神話となぞをかねそなえた街だった。去年、建都三百年を迎えたが、他の街と比べると比較的若いのだが、数えられないぐらい多数の、ありそうもない伝説と驚くべき物語に覆われる街だ。サンクトペテルブルグの歴史にはたくさんの伝説があるだけではない、昔の肖像画から永遠に見る人の運命を映している。
ネバ川沿いのピョートル要塞

詩人、作家、画家など世界中の芸術家の故郷だ。ペテルブルグをテーマにした作品を読めば読むほど、この街の心がいろいろの面から見えてくる。プーシキンの詩にたたえられて、壮大で誇らしいが、同時にドストエフスキーの小説には陰鬱で情にもろい心のある街が描かれている。サンクトペテルブルグはまるで「人間」のように、毎日違う気持ちを持ち、違う顔を見せて、前日から明日に歩いている。
1703年5月、“ザヤティイ”という小さな島でピョートル一世に創立された要塞から始まって、現在は40以上の島に要塞は置かれている、川や橋のほとりに博物館が至る所にある。戦争や革命、荒廃や隆盛、瓦解の時期を越えて、素敵な顔を残した。
100冊の本にも、多数の観光地の美しさや歴史を描ききることができないほどの街だ。実際、私は自分の生まれた街に称賛ばかりを述べるつもりはない。
ただ、みんなのためにペテルブルグのこころが見えるドアを少しでも、開きたいと思う。
以上述べた通り、サンクトペテルブルグの歴史はトレジーニという建築家に、ザヤティイ島でピョートル要塞の土台を築いた日から(1703年5月27日)始まった。要塞の中心には“パーヴェルとピョートル”寺院がそびえ立っている。金鍍金した寺院の尖塔が天使の像に冠されている。この天使は空の上から一秒も寝ることなく、その日の朝から翌朝までペテルブルグを見ながら、敵や崩壊から守っており、街の守護天使や街の力のシンボルである。

エカテリーナ女帝の冬宮・エルミタージュは「宝の手箱」
ピョートル要塞の近くに他の歴史的な中心がある。宮殿前の広場とエルミタージュ美術館だ。エルミタージュのもう一つの名前は“冬の宮殿”だ。もともとは、ロシア皇帝の冬の官邸として立てられた。昔、格式高い芸術品の収集品を所蔵するために、いくつかの部屋を使った。その部屋にエルミタージュという名前が付けられた。次第に、芸術品のコレクションが増え、更に新しい部屋を使うようになった。そのため、小エルミタージュ、大エルミタージュ、エルミタージュ劇場や新エルミタージュの建物が建てられた。現在、その全ての建物をあわせると世界一大きな美術館の一つであって、毎日ペテルブルグの何千という人々と観光客を楽しませている。ルベンス、レムブラント、レオナルドダビンチなどの有名な芸術家の作品だけではない、世界の多くの国の歴史と文化の遺産がそこに収集されている。ロシアの国の「宝物の手箱」だ。サンクトペテルブルグの誇りと財産と言える。

一度訪ねて好きになったところに将来再び戻ることができるために、お水にコインを投げる習慣がある。世界中の川と湖と噴水にはいろいろな国の人に投げ入れられたコインが集まっている。人間は魔法と縁起を信じたいものだから、そんな素晴らしい習慣を考えついた。もしも、私は観光客としてサンクトペテルブルグを訪れるようになったなら、ネバ川の宮殿端の真ん中から一生忘れられない景色が見えるところ(右方にエルミタージュ、左方にピョートル要塞)からコインを投げたいと思う。が、ペテルブルグに生まれて、自分の心を街の心と結び合わせて、コインを投げる代わりに、ただ「サンクトペテルブルグ!貴方のことを愛してる!」と彼にささやいてる。言葉を小さいコインに化えて、街のこころから始まる永遠の川の流れへ...
(平成16年5月)








〜在留日本人約30人が集いウラジオストーク総領事館で新年会〜
 
ナホトカ市ヴグエス大学ナホトカ分校

日本語講師 外間 進
 

平成16年1月15日在ウラジオストク日本国総領事公邸(Vosimaya11A通り)で新年賀詞交換会が開催され、当地に在留する邦人が招かれ、全部で30人程度の方々が集まりました。当日夕方5時半に市内にある日本センター前が集合場所に指定され、日本人会より準備されたマイクロバスに乗り三十分程度で総領事公邸に到着しました。公邸前は数人の警備員によりしっかり警備されていて私たちのバスも直ぐには通さず内部と確認を取ってから通してくれました。新年会に参加した方々は極東大学の日本語講師とその学生たち、ビジネスマン、通訳者、領事館関係の方々でした。
公邸大広間には天皇皇后両陛下の写真と国旗が飾られていて、その広間で丸尾 眞総領事と三井物産の代封カ法を理解出来ない奴が!」と言われ、次の授業の時には「さあー。今日もロシア語文法の標本作りを始めようか?」と皮肉られた?程です。ロシア語を勉強している皆さん!諦めずに頑張りましょうね。