ロシア人から日本人への遠い道のり | ||||||||||||
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両親は引き揚げ船に乗り遅れ、戦後ホルムスクに在住
仲良しはそばかすの少女・ナージャ 左側は山で、右側は海、町に出ても船や小船がよく見えます。私の近所にはロシア人が多く,一緒に遊ぶことが多いい。山に行ったり海に行ったり、夏は日が長く夜9時頃に薄暗くなると家に 私が良く一緒に遊んだのはナ〜ジャと言うロシア人の女の子です。 彼女の父は再婚し、新しい母親はナージャにとても厳しくていつも怒鳴っており、時々彼女は外で泣いていた。 私はそんなナージャの手を引っ張って遊ぼうと公園に行きました。その公園はほんとうに汚く、犬野の糞だらけで良く見て歩かないと靴についてしまう。 ここにはブランコが有るので、それに乗るのが大好きでした。二人はたちこぎを競い合いました。負けず嫌いの私はもっと高く、もっと高くこいでいたら、ブランコが一回転してしまった、自分では何が起こったのか最初は分からなかった、ブランコの鎖が短くなってるのに気が付いたときは足ががくがくして降りた。 絶対に親に言わないでとナージャに行った。彼女はそばかすだらけの顔でにっこりして「いわない」と言った。私はおやつを食べようと、家から黒パンと長ネギとチーズを持ってきて、一緒に食べた。、当時はトマトに砂糖をかけたり、きゅうり、もちろんあめ、チョコとかもありますけど、黒パンと長ネギが結構あうので私は好きでした。 白黒テレビやカラーテレビが出現! その頃にもテレビを持ってる人が近所に一人だけ居ました。韓国人でとてもよい人です。勿論白黒で、近所の子供たちが夕飯を済ませて、テレビを見せてもらいに行った。当時は珍しかったので子供たちが押しかけて部屋いっぱいになり、放送が終わるまで見てました。 それから暫らくたったらカラーテレビがでたって聞いて、持ってる人は、ロシア人でよく知らない人だったので、見せてもらうわけには行かなかった。
でも気になるから、どうしても見たくて、夜暗くなってから、その家をのぞきに行った。カラーテレビって、これ!すごく変だった、画面が三等分に分かれて黄色、赤、青に色が付いているだけで、どの場面も同じ色で思わず笑ってしまった。気付かれそうになったので隠れた。家に帰って話したら「よそ様の家をのぞくなんて」と逆に怒られてしまった。 冬は、とても寒く防寒をしないと外には出られない。それでも子供は外でよく外で遊び、そりに乗ったり、近くの山の入り口でスキーをしたり、今みたいにリフトなどないので自分で登ってすべる。 スキーも丸い輪で長靴(ワレンキー)に入れるだけなので上まで行っても、片方のスキーがすべる前に先に行ってしまって悔しい思いを何度かした。 また隣が墓地で雪が降ると調度いい高さのジャンプ台になり、ジャンプしてよく滑 った。今思えばなんて罰当たりな事をしたのでしょう。 冬は年中もの不足〜買い出し袋手に長い行列〜
どこかで人の行列があったら、何を売ってるのか分からないけど、必ず並びます。 品物が無くなり次第店は閉めカーテンを引いておしまい。 時には、前もってあの店でお米(キューバ米)を明日売るようと分かった日には大変、家族全員で並びます。 一人何キロって決まってるから買えるだけ買うのです。そのために何時間も冬の寒空で待つので手も足も痛く、とても辛かったのを覚えてます。 並ばなくて買えるのはロシアのパン〜白いパン、黒パン、プリャニク(ドーナツの形をしたパン少しカリカリして美味しい)これもおやつとして良く食べた。 どの家にも大きなペチカが有り、家庭ではロシア料理、韓国料理、日本料理いろいろでした。ほとんどが自給自足で、しょうゆ、味噌、豆腐など近所で作った日本人からいただいで食べたり、我が家ではピックルスを作って食べたり。ところで、ピックルス用きゅうりは大きくてとても太く食べがいが有り美味しいかったのを覚えている。家の横に納屋があって豚と鶏は12羽ほど飼っていました。 毎日卵が4,5個とれて、メス豚は大きくなると12匹ぐらい子供を生みます。お乳の足りない子豚は木箱に入れ哺乳瓶でお乳をあげた事も有り、とてもかわいいので兄弟で良く世話をした。 子供を生んだメス豚は殺して肉にするんです。それは父と近所のおじさん四、五人 でやるんです。目隠しをした豚を押さえて、頭を鈍器で叩き、気絶させ心臓を刺し、バーナーで一気に焼きます。 それから、お腹を裂き血を抜き、内臓を取る。豚の腸はとても長く父は腸詰めをし、ウィンナーを作るのを私にもやらせてくれた、とても美味しいのです。 料理上手の父の思い出 〜ビールで大失敗〜 父はいろいろな料理を作ってくれた。家畜を飼っている家は多く、互いに同じ様な事を手伝いあった。 父はとてもお酒好きで、私は良く一キロ先のキオスクに、とっての付いた2リトル入りの容器を持ってビールを買いに行った。 ロシア人はお酒好きな人ばかりで、昼間から群がって飲んでました。 キオスクには大きな樽が2,3個有り大きなジョッキで皆が陽気に騒いでいて、小さな私は中々前に行けず、こまっていたら、おじさんが「かわいいお譲ちゃんのお使いだ、通してやれ」と言ってくれたので買えた、冷たいビールは美味しそうでした。帰る途中で喉が渇いて私はビールを飲んでしまった。美味しいと思った、大人はいいなと思い調子に乗って飲んでたら半分になった。怒られると思い近くの水道水をたした。父は「このビール美味くない、水っぽいし、あまり泡も立たない」何でだと私に聞いたが、知らないってとぼけた。そこで止めておけば良かったのに何度か同じ事を続けたらばれてしまった。 日曜日は市場「バザール」に行くのが好きだった。大きくて色々な物が有る、自家栽培した野菜を売る人、牛の乳、魚を釣っては売る人、アンティックな家具、洋服、靴、いろいろな物が有り、地べたに沢山広げている。お互いに物々交換する人もいる。いろいろな人種がいてお祭りみたいで楽しい。時には夕方ごろになって家の近くで大きな鱒、鮭を「今釣ったばかりだ、夕飯にどうだ」と売りに来る人もいる。まだぴくぴく動ごき新鮮でとても美味しい。 ロシア式葬儀は「花と葬送の音楽」で進行 夏は夜が長いので、陽気なロシア人たちは外に出てアコーデオンを弾いて歌ったり、踊ったり、ゲームをしたりして、大人も子供も一緒になって遊んでくれます。 ある日、外で遊んでいたら、遠くのほうからラッパとシンバルの音がするので何だろうと皆で見に行った。それは葬儀の行列で、2トントラックの荷台の上に棺おけが有り、回りは赤い布で覆われ、遺体は沢山の花の中でした。 年老いたお婆さんが遺体の顔を擦ったり、手を取ったりして泣きながら歌を歌う。墓地に着くまで、今の悲しい心境をそのまま歌で表現している。 当時は教会などなかったと思いますが、でも手で十字架をきるのです。 恐る恐る私は墓地までついて行った。深い穴に棺おけを納め、花を投げ、土をかぶせ十字架を立てる。山の周りには松ノ木が沢山有ります。 今でも松ノ木を見ると墓地の山を思いだす。山には、山菜ふきが沢山あり、大きいのは2メートル近く、太くて青々して傘も大きい。それを束にして背中に背負って山を下った。とても重くて大変だった。でも美味しいので良く食べた。 ロシアでは新学期は9月か10月の1日どちらかだったと思います。 ロシアの小学校入学の時、赤いひも付きの靴を買って貰った。私はそれが嬉しくて何度も箱から出しては足を入れ、早く履きたかった。入学式はまだだったので靴を夜抱いて寝たことも有る。それほど気に入っていたのです。 入学式は晴れで、とても気持ちいい朝でした。制服は茶色のワンピースに白いエプロンの形をした物を重ねます。 学校は大きくてきれい。廊下には赤いジュウタンが引いてあり、窓の下にはスチームヒーターが付いていた。 立派な建物は、図書館、博物館、映画館、学校 住んでる家と違って、建物が立派な所は、図書館、博物館、映画館、学校です。 新入生は歓迎の挨拶をうけて、体育館に一列に並ばせられ上級生から花束を貰い教室に入る。一クラスは35〜40人位だったと思います。
人種もさまざまで、この時代では、2年から落第制度が有り成績が悪いと進級できない。毎日の授業の積み重ねが点につながるのです。 2〜3人大きい子が居ると「落第したの」と聞くと「そう、2年もね」と平気な顔で言う。我が家だったら大変だと思った。 ロシア語の筆記体の字の書き方はとても重要で、毎日チェックされノートに点を先生が付けます。日本で言う小テストみたいなもので、それを評価する。 科目によって違いますが、数学は、黒板に問題を書きそれをノートに時間内に解く。 国語(ロシア語)は、詩の暗記が多く、学年によって違うが2年で5n位、暗唱して発表するのです。社会はほとんど「レーニンの生涯」と、その「偉大さ」ばかりを称えていました。 学校は、午前と午後に別れ低学年は午前8:30から12:30ごろだったと思います。 高学年は13:30から17:30ごろで、学校の掃除などは日本と違い掃除のおばさんがいて全てやってくれます。 往復ビンタでいたずら小僧に対抗 2年生の頃だったと思います。私の髪はとても長く、いつも三つ編みをしていた。後ろの席に座っていたロシア人の男の子が「馬のしっぽ」と言い、いつも引っ張るので私の頭は天井を向いたまま「やめて、いたい」と言ってもなかなか放して貰えずとても嫌だった。勿論、先生も何度か注意したが、でも、何度も繰り返すので、ついにキレた私は、彼を押し倒し、馬乗りになって往復ビンタを3回、手で叩いた。「ああ、すっきりした!」と私は思った。ところが彼は鼻血を出して「ママに言ってやる」と泣きながら学校から家に帰った。まだ授業が有るのにかばん置いたまま出て行った。家が近くだったみたいで、彼は20分後に母親と学校に戻った。 母親はかんかんに怒って、「鼻血が出るまでうちの子、殴ったのだれ」と教室を見渡した。彼は私を指さして往復3回叩いたと言った、母親は女の子が何て事を「何て乱暴な子なの」と怒鳴って私を見る。「あら、5回の所を3回にしておいたよ」とよけいな事を言ってしまった。そこへ先生が丁度やって来て、親が教室に居るのでビックリしていた。怒っている親に事情を説明して帰って貰った。その男の子は先生に怒られた。自分が悪いのに授業を中断して家に帰った事、そして私も叱られた。鼻血が出るほど叩いた事を。次の日、母が学校に謝り来ていた。しかし、それから彼は私に近づく事は無かった。 3年になったら赤い「ピオネルスカーフ」をします。これは成績のいい子が順番にするのでクラスでは半分くらいが着用します。 一番記憶に残る楽しいクリスマス 記憶に残っているのはクリスマス。先生たちが大きなツリー(3メトルぐらいの)を取ってきて、体育館で1週間位かけて飾り付けをするのです。 女の子たちは着飾っておしゃれをする。その日は制服は着なくてもいいのです。 2週間位前から、母は私の着る服を作ってくれる。真っ白い布のワンピースに沢山のフリルを付けスカートの部分に中からワイヤを通しふわっとさせボリュームをだし、胸の当たりにはいろいろなビーズを付け、きらきらと光ってとてもきれい。髪はとても長いので三編みをして上げて、大きな白いリボンを付けます。 クリスマスパーティは朝から始め、ツリーを囲んで、輪になり歌を歌ったり、踊ったり、ゲームしたりで楽しいひと時を過ごし、最後にサンタさんが出てきて皆にプレゼントをくれます。そしてクラスの先生からはおやつを貰い家に帰宅します。 ある日、同級生のウクライナの男の子のセルゲイが言った「君たち兄弟はどうして皆な成績がいいんだよ」って私に聞いた「そんな事ないよ」と答えた。 教育と躾に厳しかった父 子供の頃私はあまり勉強は好きではなかった。でも父はとても教育と躾に厳しい人でした。我が家では、父の言う事は絶対で怖かったのです。 父は物静かな人で、よく本を読んでおり、何の勉強なのかは知らないが独学をしておりました。父は小さな私にいつも言っていた。「女性は賢く、やさしく、強くなくてはならない、子供を育てるのは母親で、愛情にあふれ、心豊かな子供に育て、未来が平和であって欲しい」と、父の思いが伝わってきた。 戦争によって青春を奪われ、家族を奪われ、愛する人と別れ、物が無く飢え、人々は絶望と悲しみのどん底の中で生きてきたと思います。
戦後に生まれた私にもその悲惨さは伝わって来ますが、本当の恐怖は戦争を体験した人でなければ分からないと思います。 だから家でもよく勉強をさせられたのです。でも、一般的にロシア人の間では日本人は頭がいいと、噂をしていたみたいです。 父は日本人として誇りを持って生きなくてはいけないと言っておりました。 ソ連の国籍である私たちは、特に子供の私には何の意識もなかった。両親は一日も早く帰国する事ばかり考えており、時々ラジオから放送される日本からの放送を欠かさず聴いています。ラジオから流れる、その当時の流行歌の曲を父はお酒を飲みながらいつも歌っていた。ひどいオンチで「これでも歌?」と思うほどで、だが祖国への思い、虚しさ、辛さ、悲しさが子供である私にも感じ取る事が出来た。曲名は分かりませんが、今でもその歌を思い出す事があります。日本からの手紙一つでさえ届くまでに何ヶ月もかかり、辛い日々を送っていたと思います。 帰国手続きに、何度もユジノサハリンスクまで何年間も行っていたのを覚えています。国籍を変えるのは当時ではとても大変な事で、特に子供は旧ソ連は渡したくない様でした。成績も良く、それに兄と弟は体操も上手く評判だった様です。 母は、段々病弱になり、家事も父が仕事から終えてからする様になり、私も手伝った。洗濯機のない時代だったので大きなたらいに洗濯板で固形石鹸で家族分洗うのは大変で3時間位かかり、手は擦り切れ、とても痛かった。またロープを張って干すのは子供の私には大変な作業で、近所の人が手伝ってくれました。 ときどき見ず知らずの日本人が家に訪ねてくる事があり、放っては置けず、何日も泊めておもてなしをしたりした。 時には一晩泊まって朝早く居なくなった人がいた。布団が畳んであり荷物も無い。不思議に思いシーツを取るのに布団を広げたらビックリ! 布団が濡れてとても臭かった。大人がおねしょうするなんて、信じられなかったのです。でも、両親はいつでも人には親切でした。 待ちに待った帰国許可〜さらばサハリン!私の故郷を後に〜 そして、昭和40年、待ちに待った帰国許可が下り時は大変な喜び様でした。私はとても複雑な心境でした。学校では、先生や友達が別れるのは寂しいと言って、お互いに抱き合い涙を流し、もう会うことが無いだろうと思うと悲しくて、辛かった。
船はゆっくりと動き出し港から離れた。私は甲板に出て、もう二度と戻る事のないサハリンをしっかり瞼にやき付け、忘れない様にと思った。 何時間も何時間も立って動かなかった。そんな私を父はただ黙って頭をなで、抱き締めてくれた。私にとって忘れる事の出来ない昔の懐かしく、そして切ない思い出の一つです。 いつか機会があれば、忘れ去ることのできぬ、私の生まれ故郷・サハリン(旧樺太)を再度訪れたいと思っております。(了) サハリンについての詳しい情報は下記をご参照ください。(編集部) http://www.city.wakkanai.hokkaido.jp/main/sakhalin.info/index.htm |