越地の”おろしや国酔夢話” その3 05年1月更新
越地の”おろしや国酔夢話” その2 04年11月更新



越地 博(通信員・東京)
”おろしや国酔夢話” その3
さあもう一度大きな油絵を見よう!
―ウクライナ娘と友好交流―
さあもう一度、最後にあの気に入った3階に行ってみよう。あの大きな油絵をみよう。もう道に迷いません。自分の好きな絵の処を順に回って行きます。“またここに来る事があるだろうか”と考えながら、ふと前方にお姉さんが二人、絵の説明文を覗きこんでいるのが目に入りました。私の前方左側です。ロシア人とそっくりだけど、私と同じ、ロシア人から見た外国人だと思います。そして側までいって一寸驚きました。一人が私と同じカメラを持っている。ロシア人には懲りてますけど外国人同士なら私は平気、おもわず英語で言ってしまった。

“You have a same one as mine、Olympus 2040.”
どうせ言葉なんて絶対通じないのにと思っていた私に、彼女はにっこり笑って話しかけてきた。
“同じだけど少し違うよ、私のロシア語で書いてある。貴方の英語で書いてあるよ。(カメラのダイヤルの文字の事です)私、10年使ってる。貴方いつ買った?”…………She has a good sense of humor.
初めて、英語が通じた!話かけた私の方がよっぽどびっくりした。
“7年前、貴方何国人、ヤーイポーニツ(私は日本人だよ)”
私がやっと一言だけロシア語、あとは英語しかでてこない。しかも彼女は私よりフルーエントな英語を話す。“私、ウクライニアンだよ。”彼女は友達に向かって“なんとかちゃん、この人日本人だって!(おもしろい人だよ)”友達にはロシア語です。
昔の事を思い出す。6~7年前、トルコの地中海岸沿いの町、アンタルヤに行った時、空港でホテルの予約を電話している内にバカな私は市内行きのバスに乗り遅れ、連れの彼女、あーちゃんとともに途方にくれていました。私たちはイスタンブルで英語を話すトルコ人たちに騙され続けていました。精神的に疲れていました。
ここから市内まで40キロ以上あります。呆然、そこに歩いてきたトルコ人のお姉さんが、私たちに声をかけてきました。
「貴方達日本人?」すごく正しい日本語です。
―トルコで日本留学生と交流―

“貴方たち日本人?困ってるの?市内まで送って行きましょうか?”すごく正しい日本語です。。この時もものすごく驚いた。そして彼女には連れのパパがいて日本からの留学帰りとの説明。パパの運転の車で40分ぐらいかかって市内まで送ってもらい、車の中で彼女の住所と電話番号を聞いた私は、その夜ホテルに彼女、パパ、ママ、の3人を食事に招待しました。セプタブちゃんという人です。  
セプは日本語、英語が堪能です。パパとママは、トルコ語しかできません。ホテルのレストランはおしゃれで、テーブルの上には小さな日本とトルコの国旗が並べられ、5人でワインを2本あけて、昼間のお礼をセプに通訳してもらってパパ、ママに伝えました。パパと向き合って座ってお互い言葉が通じないと、ただ笑顔を交わすだけです。お互いつまらない、大の大人が気はずかしい。やさしいパパは娘のいる国、私たち日本人のために翌日車で市内を案内してくれました。そしてセプに教えられました。
“トルコ人は、いい人です。越地を騙したのは、91年湾岸戦争でトルコに入ってきた隣国の人たちよ。”セプに日本語で声をかけられたあの時、あーちゃんはそれこそ馬か犬が人間の言葉をしゃべったくらいに驚いていた。今の私が同様に、1年間孤島で暮らして久しぶりに人間にあった時、きっとうろたえるであろうそんな状態です。そして一瞬で頭の中にいろいろな事が駆け巡った。<スベとの約束の時間に遅れる。私はパスポートを今持っていない。さっき監視のオバちゃんに追いかけられたばかりだ。
時間どおりエルミタージュの入り口で待っていてくれたスベータ。

ロシアの警察はやばい、しかも今お金をいっぱい持っていない。何かおきてしまうかもしれない。スベちゃん怒り出したら、私はロシアで路頭に迷う。> この地域の経済状態を多少は私も知っています。お姉さんたちは給料が、月¥2万〜4万くらいで、あのデヂカメは昔ならば10万円以上するはず、隣国ウクライナとはいえ、パスポートで海外旅行が出来て英語が凄くうまい、高そうなメテリッツア(腕時計)をしている。ジーンズでUSA風のさりげないフアッシオン、よっぽど良いとこ嬢ちゃんか、外資系で働いている才女に間違いない。そして私はウクライニアンは生意気な人々という偏見をもっていた。間違っていたみたい。
私は話をしたそうにしている二人の写真を撮って、すぐさま退散してしまった。
バカな越地、E-mail ADRES ぐらい聞いてくれば良いのに。………………………すごくいっぱい後悔。
“楽しかったですかー、エルミタージュは?”“はい、ダー”
―楽しかったような気もします。複雑な心境です―

帰りは元老院広場からイサク夏寺院へ行きました。新郎新婦が5〜6組、かくかくお祝いの取巻きと供に歩いていました。自分の町で結婚式をあげ、その町の観光地で結婚記念写真を撮るのが習慣だそうです。取巻きの人たちは日本と同じご両親、親戚、友人達です。元老院広場について、何かの本で読んだ記憶があります。ここで待ち合わせをした恋人同士は、永遠に結ばれるとか、ここで誓いをすれば結婚できるとかいう内容で、スベに聞いたらそんな事聞いた事ないと言われました。後日会ったスベの友達リーザに聞いても“知らない”との事。本は嘘を書いていたか、私の記憶違いのようです。
イサク寺院の上までチケットを買って上りました。高い所は気持ちが良いけど、後日東京で登った東京タワーの方がやはり素敵です。ただイサクには人はいっぱいいました。
私は生命体には反応するけど、無機物には反応しないみたい。観光とか名所とか悪くないけど、そこに存在する人間の方によっぽど反応します。
明日は夏の宮殿に行こう。前にNHKのTVでその特集を見ました。明日はTVではありません、実物はきっともっと良い所のはずです。
土曜日です。私はカレンダーの日付けを忘れていました。土曜、日曜はペテル近隣からと海外からの訪問者で街が混み合うそうです。イサク寺院の前から船で私は行きたかったのですが、凄く混むそうです。混むのはエルミタージュで懲りてます。観光者コースをはずしバスと電車で行きました。観光客は一人も居ない普通のロシア人たちと一緒で、越地はペテル市民の中に溶け込む。二度目の電車、そして駅が地味だけど何とも言えない風情がある。
サンクトペテルブルグ駅の様子

駅の大きな看板“САНКТ-ПЕТЕРБУРГ(サンクトペテルブルグ)”、昔の東京駅の様な高い天井、少し暗いせいかモノトーンの色調の寂れた落ち着いた雰囲気が人々とバランスを取っている。なぜかお姉さんたちはギンギンの派手な明るい服装をします。ブロンドと青い目にはそれが良く似合う。ペテルの街は全体がくすんだパステル調をしています。新築の新しいビルがありません。灰色一色の中に赤いバラや白いユリが動いているみたい。越地はだんだん感覚が壊れてきた。まずい、日本で普通の生活に戻れるはずだけどちょっと心配。
夏の宮殿、エルミタージュと同じで外国人料金チケットを買う。外国人ツアーと、ロシア人の遊びに来た人たちが混じっています。子供ずれ、家族ずれのロシア人、普段着の人と、着飾った人、いろいろです。私は行った事ないけど、東京デズニーランドもこんな風なのだろうか。多分違うと思う。高い施設が一箇所しかなく、あとは平面なので派手さはないけど、ロシア人は普通に楽しそうに公園に溶け込んでます。日本人ツアーに会いました。疲れている様にみえます。スケジュールが詰まっているのでしょう。あれで楽しいのかな?
中のマクドでサンドの昼ごはん、ここは目の前がフィンランド湾で水がもっと綺麗だったら最高でした。私は海が好きです。宮殿の中の施設は全部これが出来た時からのままですが、一箇所だけ復元された所があります。そこだけ新しく、なのに人だかりが多いので判ります。中の設備、施設の紹介は省きますが、本、紹介記事等と、実際の大きな違いはロシア人が居るか、居ないかです。TVでもそうでしたが無人の宮殿はつまらない。外国人ツアーもダメ!楽しそうなロシア人と一緒に居るとそれだけで私も楽しくなる。彼らは遊びを良く知っている。

一寸疲れている私たちは、来るのが少し遅かったために、早めにここをきりあげてバスで近くのロシア村に移動。観光目的ではありますが、新しく出来た、昔のロシアの生活を再現したテーマパークです。まだ造成中、全部出来ていないうちから開放するのがロシアのやり方。売店で昔ながらの甘いお酒を売っていてさっそく試す。なかなかいける味だけど、いっぱい飲むと動くのがいやになるので一杯で止める。鍛冶場があって実演中、古いタイプのお土産、ろくろのツボつくりの実演あり、昔のロシアの家が再建して展示され、船などまだ建築中のもあります。ただ売っている物が外国人料金で高いみたいでした。そしてここはツアー客はまだ来ません。日本人で来たのは私が初めてかもしれない。ロシアは土地だけはいっぱいあるので今後こういう物がどんどん出来てくるでしょう。ただその帰りがまた凄かった。
ロシア村をでて5分でバス停へ。待っていてもバスは満員で止まりません。バスは冬の宮殿が始発です。Pm.5:00の終了で皆が帰る時間にぶつかり、5~6台通過した所であきらめヒッチハイクに切り替えました。右手の親指を立てて腕を上げる。しかし車もなかなか止まってくれない。私が外国人のせいだろうか。やっと止まった一台、
“どこでも良いからメトロの駅まで送って!二人で200ルブル!”
頑張るスベータ。止まった車の一台、“安すぎる”、次“やだよ”、だったら止まるなよ!
三台目でやっと乗せてもらう。疲れたけどひと安心、越地だけだったら帰れなかった。地域の習慣を知らないととんでもない事になります。合計一時間以上かかりました。
やっと着いたメトロの駅はレーニンスキープロスペクト、もちろん私は初めてです。安心したらお腹がすきました。すぐ側の地下一階のレストランに入る。例のごとく表の看板は小さいです。そして、驚いた。ロシアで初めての経験、エルビスです。白黒ですが店内のスクリーンで歌ってました。“Love me tender love me do……….,”
すいてる時間帯のせいか約30テーブルに三組ぐらいしか客がいません。夜遅くなって混む店らしい。私たちはサーモンの焼いた物、サラダ、あときのこの料理にグラスワインを頼んだ。すぐに注文の品物が来て、なぜかハウスワインのボトルも付いて来たのでウエイトレスさんに確認したところ“貴方外国人でしょ、サービスするわ。”と言われました。私はほんとに嬉しかった。外から見ると判らないけどロシアにもこういう店が在るんだ。店長さんでなく、彼女の判断でこういう事が出来るそうです。外国人は何度も来ませんから、普通はかもにされるのが当たり前です。過去にも海外でこういうサービスを受けた事はあまり記憶にありません。スベちゃんが居て良かった。言葉が通じなければ、私は返品して、好意を無にする所だった。出るときちゃんとチップを包みました。(ちなみに、私たちの行ったレストランは、全てチップを出してます.それなりに高級な店だからです。)しかし、気に入った店でも私は次に一人で来ることは出来ないでしよう。ちょっと寂しい。もう少し私がロシア語が出来ればいいのに…..。
私は無意識の内にロシア再訪問を意識しだした。妙に肌にあう街です。ペテルは素敵!
ただ今日も疲れました。そして日本に行く日が近付いてます。ペテルにあと二日。
(更に第4話に続く)



”おろしや国酔夢話” その2
ロシア人ってどんな人たち? 〜日を置く毎に変わる印象〜
 この旅行記で一番触れたかったのは、現在のサンクトペテルブルグについて、そしてロシア人とはどんな人達か、其の姿について迫って見たかった事です。日を追うごとに、印象は変わり、理解が変わっていくので、水曜日、木曜日、金曜日の途中まで、一度にまとめてみます。その間、主に出かけた場所は、水曜がロシア美術館、木曜が別荘地(いわゆるダーチェ)、そして金曜があのエルミタージュ美術館です。(10月17日まで、東京でエルミタージュ展が江戸東京博物館で開催されていました。)
名門キーロフ劇場スターの妖艶な踊り!
 さあ、初めての市内見学
〜水たまりだらけの“都”に驚き!〜

 
さあ水曜日、初めての市内見物にいきます。朝の簡単な食事の後、メトロの駅まで歩く。何となく水溜りが多くて、なるほど昔湿地を埋め立てて作った町という説明に納得。スベちゃんの話では、今日が水曜日で私の着いた前日、月曜日にけっこう雨が降ったとの事でした。勿論、東京でどんなに雨が降っても水溜りが残る事はありません。そして、繁華街に出ても、水溜りは残ってました。2日たってもこれって、雪の降る冬がうまく想像出来ません。
 私はツアー観光者と違いますから、いわゆる観光地域と市民の住む住宅地の、両方を歩きました。町を歩くと普通に想像する大きなロシア人は、あまりいません。そして午前中から住宅地の方に、何となくブラブラして用事の無い男のロシア人に気がつきます。多分仕事がないのでしょう、雰囲気も何となく下を向いていて、暗い感じがしました。そしてロシアのお姉さんたちは違います。メトロに乗るために改札を通過して長いエスカレーターに乗ると、ホーム
   にゆく人と出てくる人がすれ違います。メトロは深くてエスカレーターは4〜5分(?)かかりますが、すれ違いでたまに向こうから来る綺麗なお姉さんにガン飛ばされます。それはきまって美人のお姉さんだけでした。外国人の越地が珍しいのではなく、多分品定めだと思います。
 そして自分のルックスに自信があって、むしろ私がどんな反応をするかを知りたいからでしょう。エスカレーターは縦一列で乗りますから、スヴェちゃんは前か後ろにいて、私は一人でいるように見えるのでしょう。私は目を伏せたりしません。相手を良く観察します。そしてだいたい化粧の濃い人がほとんどで、あまり好みでは有りませんでした。
 ロシアのお姉さんたちは高校生時代から化粧開始!
  〜長い睫は本物で〜す〜

 話がそれますが、ロシアのお姉さんの顔立ち、化粧について少しだけ。早い人は高校生から化粧をするようです。そしてその化粧法が上手くなるというか、段々変わってゆきます。目立たない様な仕方とか、きつい化粧をするとか、その人の好みと性格でだんだん変わってゆきます。ですから時々によって、あるいは年齢によってまるで違う人みたいに変わって見えるのがロシア女性の特徴です。勿論、全く化粧をしない人もいます。睫毛の長いのは本物です。付け睫毛は必要ないから売っていないと思います(?)。それから、アメリカ人はメチャクチャ髪の毛をいろいろに染めますが、ロシア人は染めない様です。ブロンド、チャパツはスラビニアン、ブラックはコーカシアンの特徴で、レッドは良く分かりません。
 
 サンクトペテルブルグ住宅地中心部の風景
 私たちの使うメトロの駅はプリモールスカヤ、終点(始発)なので、私ひとりでも乗り降りに大丈夫みたい。でも駅名の放送は、慣れないせいか全く分かりませんでした。駅に入った所から出るまで、全てカメラ撮影は禁止で凄く厳しい様です。何故だか分かりません。そしてメトロでは町の景色とか、広さ、距離感が分からないので、なるべくシャトルバス(路線タクシーだそうです)を使う様にしました。繁華街に出てゆくと、何故かだいたいエルミタージュの前、
宮殿橋に着きます。橋のエルミタージュの反対側、 
中央海軍博物館側には、横断歩道が有りません。歩行者は道路を渡れません。そのために凄く不便です。あの道路を走って渡るのは、車の混雑から絶対無理です。人を避けるために減速する車は一台も有りません。勿論、道を走って渡ろうとする人は一人も居ませんでした。やれば必ず轢かれるでしょう。車の少ない住宅街でも、道路を渡るときはスベちゃんに厳しく何度も言われました。 “危ないから気をつけて、急いで” 越地はそんなにトロくは無い。でも知らない町の中の、習慣の違う日本人なのです。ロシアの車は右側通行なので、道を渡る時つい左を先に見る私は危ない様です。車は人を見てもブレーキをかけません。
 “は〜い、良く分かりました。気を付けます。” 
 さて水曜日に絶対やっておく事、それは、パスポートにペテルの滞在記録を残す手続きです。日本を出る時、ロシアに詳しい知人から“これだけは忘れないように、忘れると帰りにモスクバで出国出来ない事が有りますよ。オビールに行きなさい。”と言われてました。ちょっと、詳しく説明します。
 やる事はパスポートにペテル滞在の印を貰うだけです。やり方は、オビール(アビールの発音の方が多いようです、どちらでも通ずる様ですが)か、滞在先のホテルか、現地の旅行社のどれかにパスポートを預けて後日受け取り、其の間にハンコが押されて、その間パスポート無し、パスポートのコピーだけとなります。その間もしトラブルがあって警察の厄介になると、パスポート不所持となって大変まずい事になる。そして、スベちゃんから、説明を受けました。“アビールなんて頼めるわけ無いでしょ。混んでて何日かかると思ってるの?一週間かかるわよ!”…………………………….怒られました。
 
 英語表示看板は皆無、外国人には不案内
 
 ロシア美術館前にて、ガイドのスベータさんと
私たちは、旅行社に行きました。ペテルの町は看板、案内が凄く少ない。もちろん英語の表示は、殆んどない。(確か一つも無かった)スベちゃんは、通りをスイスイと歩いてあるビルの小さな入り口のドアを開けて、階段を上って行きました。階段はそれなりに広いです。でも何であんなに入り口が狭いのか、外国人にはその会社の場所が絶対分かるはずがない。三階まで行って、ドアを開けて彼女がいろいろ話をして、そこから旅行社のお姉  さんと三人でまた他のフロアまで行って、別の窓口でお
 金を払って、やっと手続きが終わってパスポートを預けて、随分時間が掛かりました。確か60〜70 USD 払いました。変な国です。
 気になる変な事があと一つ、町の両替商です。両替は USD を現地通貨に換えるのが普通です。従って、看板は英語で NO COMMISSION、 EXCHANGER (手数料無し、両替)が大きく出ているのが今までの自分の常識でした。ここでは、看板もろくに無し、為替レートの表示も無し、外国人には絶対分からない様に小さな店で、ロシア人向けにやってました。ロシア人て、自分の貯金するお金は USD で持つのが、今の習慣のようです。90年代後半のデフォルトで、彼等は銀行に貯金をする事すら、もう止めてしまった。スベちゃんだって、銀行口座を持っていません。これが今のロシアです。
 ペテルの初めての日は、自分の常識が通じない事に気が付くための一日でした。普通だったのは、ロシア美術館の中に居た時だけでした。エルミタージュは海外美術品で、ロシアの美術絵画はこちらに集めてあります。私に絵画は良く分かりませんが、それでも素敵な処でした。そしてスベちゃんの好きな絵が、モスクバに引っ越していました。其の絵を越地が見るために、帰りに本屋さんに二人でいきました。ロシア美術館蔵画全集を見つけて買いました。ロシア語版です。もし、英語版が有っても、外国人向けで高いから買いません。本屋さんの中で棚とレジの写真を撮ろうとしたら、スッとわいて来た警備員のでっかいオッサンに、強く止められました。私は客ですよ!そもそも、なぜ本屋さんの中にあんな凄そうな警備員が居るのか、理解できません。“モージナ ファタグラフィーラヴァチ(写真撮ってもいいですか?)”なんて、言ってもとても無駄そう。せっかく憶えているロシア語など、まるで役に立ちません。英語もロシア語もだめ、全滅です。
猫のえさ代を“猫ババ“するビジネス

 ネブスキー通りで、ダンボールに子猫を入れて、おじさんが猫を売っている(?)と思いました。実際は違いました。“可哀そうな子猫に愛の手を”〔筆記体のロシア語を私は読めませ  
ん〕売ってもいますが、それより養育費としてエサ代を寄付して貰って、それをネコババする商売です。これでは洒落になり過ぎてます。スベちゃんから、その説明をされて私は悲しかった。私は猫が大好きなのです。
 その頃、一日が長いような気がして自分が疲れているのに気が付き、日差しは午後4時〜5時なのにと時計を見たら、午後8時30分でした。全く気が付きませんでした。調子が狂います。精神的に疲れてきた。
もう帰ろう、スベちゃん。二人とも疲れてます。                        
午後11時30分で夕焼けが少し出て、それが終わっても全然暗くなりません。彼女はそれが当たり前だから、普通に何も考えない、何も感じない。私には今日が終わろうとしないから、普通でない。白夜を再確認です。
 私にとって、初めての珍しい町ペテルも、彼女にとってはタダの日常生活、普通の町です。二人が共に珍しい所は、相談の結果、スベちゃんが昔子供の頃過ごした事のあるダーチエ(いわゆる別荘)です。明日はヴェリツアの駅まで電車で行って、ハイキングする事に決めて有ります。(彼女はピクニックと言います)明るいけど頑張って寝よう!寝るのにも努力が必要って、すごい一日でした。
子供はどこでも可愛い
 木曜日です。これから一時間電車に揺られてハイキング。久しぶりに乗る電車は、楽しい。外の景色は林と畑の緑が続きます。電車の出発と同時に、物を売るおじさん、おばさんがやって来ます。アイスクリームを売りに来ました。飲み物も売りに来ました。お菓子も来ました。皆バラバラで、各役わりが決まっているようです。ビール、アルコールは来ませんでした。一番有りそうなのにきっと禁止されていたのでしょう。変わった物では地図を売りに来たり、車両のドアを開けて入った所で、5分ぐらい、まず口上を言うおじさんがいます。
多分、販売品の説明より、自分の生活のためにぜひ買って欲しいという事らしいのですが、ほんとの所はスベちゃんに聞きそびれてしまいました。メトロと同様に、車内は撮影禁止です。各駅で止まる毎にだんだん混んで来て、座れない人が出てきます。年配のオバアサンが乗って来たので、席を譲ってあげました。彼女は素直に嬉しそうに座りました。そして下車する時に、“スパシーバ”と声をかけてくれました。それがあまりにも自然で、私は後で気が付きましたが、彼女は私が外国人、イポンスキーの旅行者であることに気が付かなかったようです。ロシアは、色々な人種がいるのでアジア系も少しですがペテルに居るようです。着てる服装で区別が付きそうなのに、オバアサンは、その事に気が付かなかった。別荘は、緑の林と草地の中に点々と立っていて、高そうな家から古い家まで色々です。土地が100〜200坪ぐらい、土地と家で合計日本円にして50〜60万円ぐらいが標準です。家は自分で建てます。家を作るのに1〜2年かかるよう、出来上がりはそんなに悪く
 別荘地を闊歩する愛らしい少女たち
  
はありません。彼らは器用です。そしてロシア人は、自家用車とダーチェの二つを欲しがります。なるほど、住宅地の9階建てアパートは、国から借りる物で個人所有の家は有りません。自分の家はこのダーチェになります。それにしても夏の前後に、毎週末あるいは3〜4ヶ月をここで過ごす事ができる時間的生活って、日本人の越地には理解出来ません。不思議です。日本人なら、代わりに仕事を失う!
 ペテル市内より、子供が多く居ました。道ですれ違います。またここで初めて猫に出会いました。なるほど、ロシアのこの地域ではホームレス猫がいません。彼等は一人で冬を越す事が出来ません。人目見て、飼い猫と分かる品のいい大人の猫ちゃん、町で見たのは、この一度だけでした。呼んでもキョトンとしています。名前が“ミーシャ”とかロシア語なんですね。日本語はロシア猫には通じませんでした。そして川は流れ、水遊びをする子供たちもいて、草原にはタンポポの花が咲き、空気は乾燥して過ごし易く、気温は24度ぐらいで程よく暑い一年で一番いい時がこの6月です。しかし、このペテルブルグでも冬はー10〜―15度、時々―30度です。しかも、雪は積もり、しとしと雨も降り、あのネバ川が凍ってしまいます。良い時と悪い時の差があまりに大きい。
 ロシア、ペテル、ロシア人を知るには、冬の一番寒く辛い時を知らずして、理解するのは不可能です。私とロシア人は似ていて全然違う世界に住んでいた。もう一度、今度は冬にそれを確かめに来るんだ。決めました。
 美味しくなかった寿司バー、みそ汁には舌鼓み
 
元ロマノフ朝冬宮、エルミタージュの威風
ペテル市内に戻って、すしバーに行く。一番高い店は休みだったので、新しく出来たばかりの店に行った。一言…………………………….美味しくなかった。がっかりしました。でも味噌スープだけは日本の味です。店は流行っています。ロシア人のカップル
 でほぼいっぱい、日本食はお洒落なようで、値段も二人で約1200ルッブル、リイーズナブルでした。
 
さあ、いよいよエルミタージュへ!
 さあ金曜日、今日はエルミタージュに行く。そして初めて一人行動です。ただし、エルミタージュの中でだけです。なぜか、私は信用がない。
 内部も見事な宮殿でした!
 ”迷子になっても大丈夫だって!”シャトルバスで宮殿橋へ、急いで入口へ並ぼうとして驚いた。午前10時過ぎです。何でこんなにいっぱい人がいるの?150人以上います。私が一人だったら、迷  わず帰ってしまったでしょう。すぐさま、スベータは列の先頭に行って戻って来ました。私たちはネバ川沿いの入口に並びましたが、彼女のおかげで、そこが団体客用なのに気が付きました。エルミタージュの建物に沿って直ぐ移動、広場側の個人の受付入口に並びなおす。ペテルも3日目になれば回りが見えてきます。 
 40人ぐらい人が並んでいましたが、ロシア人に似ていますけど、何か違います。何故だろう、分かりませんが、ベラルーシアンか、ウクライニアンか、あるいは少なくともペテルの市民と雰囲気が違います。西ヨーロッパ人、東洋人は、一人もいません。あと入口まで10人ぐらいになって、突然入口から西ヨーロッパ人のオバサンが、血相変えて飛び出して来ました。“エニワン、ドゥ ユー スピーク イングリッシュ オア ルフランセ?(誰か英語、フランス語分かる人、助けてよ!)”皆、控えめに無視していました。私は思わず、“イエス、ア リトル”と言いそうになって、止めました。可哀そうだったけど私たちは急いでいたし、自分は目立つのが嫌いだし、相手がオバサンだし。もし可愛いい子なら返事をしたかも知れません。でも、そうしたらスベちゃんが不機嫌になったでしょう。(心の中で)“御免なさいオバサン、自分の事は自分で何とかしなさい。英語だけでは無理なんですよ。” 私も段々ロシア人風に考える様になって来ました。ドアから中へ、凄い混雑でロシア美術館でもそうでしたが、皆並んでチケットを買いません。昔連れて行かれた大宮競輪場の車券売り場と同じです。スベちゃんがチケットを買ってくれる。写真撮影用のチケットも買いました。ここでは私は外国人料金です。ベラルーシアン、ウクライニアン達は、勿論ロシア語を使います。彼等は、どっちの料金を払うのだろうか?これは後日帰りのモスクバで分かりました。
ここでスベちゃんとお一時別れ、”グジェ、トワリイェット?!”
 ここで、スベちゃんとと一時お別れ、彼女は仕事に行きました。さて、一人になって、まずロシア語を試そう。案内へ行って、声を掛ける。“グジェ トワリイェット?(トイレどこ?)”案内図を指されました。言葉が、知らない人にでも通じる、嬉しい。うきうきします。しかしそれも一瞬で、エルミタージュの中の広さには閉口しました。何しろ広い。そして継ぎ足し、継ぎ足しの造りで、道順は悪い。いつの間にか同じ場所に来てしまう。途中に案内図は無し、しょうがな
解説は不要です ペテルブルグの日常!
くてもう一度地図をしっかり覚えました。つまらないと思う物はどんどん飛ばしました。宗教画の良さなど分かりません。肖像画はもっと分かりません。オリエンタル古美術はガラクタにしか見えません。私にこうゆう教養が欠けている証明なのかも知れません。でもエルミタージュの中は、なぜか楽しく明るい雰囲気があります。模写をやっている学生さんが居ました。原画そっくりに油絵を書いている、アルバイトです。“写真撮らせて!”しかし、彼女は泣きそうになりそうな顔で拒否します。きっと大事なバイトなのでしょう。そして大事な収入らしい。我々、観光客と明らかに雰囲気、身なりが違います。じゃまして御免なさい、女学生さん。
 3階のヨーロッパ絵画は凄い素敵、そして絵が大きい。私を一緒に写真に撮れば大きさが理解できると、そこで待ってて、観光者のオバサンにカメラのシャッターを押してもらう。その後、ロシア語でしつこく話し掛け られて参りました。“ヤ イポンスキー ニエット パルースキ”しかしみごとに無視されて、楽しそうに何度も話かけてきます。一人だから、ペテル近辺の田舎から来たロシア人だと思います。凄く良い人なんだけど、だからオバサンは苦手です。私のロシア語は役立たない事ばかりです。
大きさに圧倒される絵画

 楽しくいこう、ひょろっと背の高いかわいい顔した17〜18歳ぐらいの少年が来たので、また写真を頼んだ。どうせだめだから、もう英語と身振りにしましたが、彼は外国人と話せるのが楽しいのか快くOK.しかし私がちょっと不注意だった。額縁にちょっと手を触れてしまい、監視のオバチャンがものすごい怒る怒る、しかも追っかけて来るので二人は別々に左右に走って逃げました。ほんとに不味かったけど、面白かった。ボクは、逃げるのが得意、しかし私は逃げずらい外国人です。彼は私を心配したかもしれない。その後、30分ぐらい後で、改めてボクと偶然会いました。すれ違って、目配せしあって、ニヤッと笑ってサヨウナラ。楽しい少年だぜ。逃げる事が出来て良かった。お互い心配し合って居たんだ。気持ちが良く分かる。
 トイレの傍のベンチに座って休んでいた時、私の隣だけ空いていました。回りは修学旅行で来た中学生がいっぱいです。子供たちは見ないようにしながら、外国人の私に興味があるようです。やがて、少女が一人つかつかと進んできて隣に座りました。じっと下を向いてます。それが凄く可愛くて黙っていては変だから、私から声をかけて上げま
 街中が博物館!背景はイサクスキー寺院
した。“ロースカヤ?”少女は下を向いたまま、首を左右に振って“べラルーシアン”と小さな声で答えました。“ヤ イポンスキ”少女はうなずいてました。回りが何となく静かです。私は立って歩き出すとき、少女に手を振ってちゃんと聞こえるように、“ダスビダーニャ”。少女は今度は顔を上げて、凄く嬉しそうに手を振ってくれました。なるほどスラヴィニアンのロリータは、おませで可愛い。越地を珍しいお兄ちゃんぐらいに思っています。私が居なくなった後、回りの子が集まって、“ね、ねー、あの人何人、何話したの?”盛り上がっていたと思います。きっと少女は英語か日本語を頑張って勉強するでしょう。少年少女は何を考えているか分かり易くて楽しい。あとでスベちゃんに言われました。“いったいなにやってるの、貴方?”
 確かに普通の大人には、理解できないでしょう。私は心の優しい越地です。他の人と少しだけ違う様です。
 お昼のランチは一階でファーストフード、ここは皆ちゃんと並んでます。ガス無しのペット飲料水の区別が付きません。だからエビアンを頼んだら、飾ってあるのに無いと言われました。しょうがないからビールとサンドとコーヒーを注文、フランス語が通じるのかと思って、“オッドゥ(ホットドッグ)、ヴァンルージュ(赤ワイン)”と言ってみて無駄でした。一人で食事は楽しくない。キョロキョロしてたらあの模写アルバイトをしていた学生さんが来たんです。よほど声をかけて同席しようと思いました。しかし、彼女はコーヒーを一つ買って隅のテーブルにひっそりと一人で行ってしまいました。“ここに居る人たちは金持ちの贅沢でわがままな外国人、私はきらいです。”背中にそう書いてあるようです。少なくとも私はわがままではない。彼女を見ていて、一寸しゅーんとしてしまいました。理解し合うのは無理です。旅行者は浮かれている。地元の人は醒めている。嫌われるアメリカ人と私は違う。
 さあ、あと2時間でスベちゃんと待ち合わせの時間になります。もう一度3階に行こう。
 (その2-了 続編を乞う御期待!)
 




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